好きな映画らしい映画が減っていく
ある方のブログにコメントを書こうとしたら、字数オーバーでエラーになってしまった。そこで以下に全文を掲載することにしました。
お久しぶりです。楽天ブログのracquoです。少し前から新ブログ拝見させていただいてました。『アーティスト』は昨年5月に映画館で見ました。今ではあまり印象に残ってません。二度三度と特に間をあけて複数回見た作品の印象が強いのは当然として、1回の場合、見たときは深く感動しても1週間もすると印象の薄れる作品もあれば、見たときには特に強く感じなくても1年、2年…と時間がたっても印象の薄れないのがあるのは不思議です。
動画映像のこれからについては、新しい技術を使ってどんどん新しい表現が出てくれば、とは思います。ただ今までフィルムで撮ってきたものをそのままデジタルで撮るというのでは芸がなさ過ぎます。それならフィルムで撮れば良い。その意味ではゴダールの『ソシアリスム』は、作品の好き嫌いや出来ということではなく、デジタルシネマを使った撮り方はさすがにその特徴を捉えていた作品でした。
でも本来の「映画」というものに関しては、蓮實重彦氏の「映画はいかにして死ぬか」ではないけれど、自分も悲観的。どの時点で映画がいちばん生き生きとしていたかは人それぞれ考えは違うだろうけれど、おおまかにサイレント⇒トーキー⇒カラー⇒ワイド化という流れの中で、自分にとっては「白黒・トーキー・スタンダード(ないしビスタ)・映画館でフィルム上映」が一つの完成形。それ以後さらなるワイド化、3D、CG、HD、あるいはビデオ、DVD、ストリーミング、ブルーレイ、またデジタルなら当然ながらフィルム撮影であっても監督がモニタースクリーンで映像を見ながら撮影できるシステム、こうした技術進歩の一つ一つにしたがって、映画が映画でなくなっているように感じます。
今までカメラの横で自分の演技を注視してくれたベルイマン監督がHDではモニターを見ていて演技を見てくれないことに戸惑いを感じたと言っていたのはリヴ・ウルマンでした。ロマン・コッポラは『CQ』の中で解雇された映画監督(ドパルデュー)に「役者は監督のために演技をするんだ」と言わせました。この変化は映画的であった役者の演技を別な性格のものに変えてしまうでしょう。たまに桜坂劇場の中江裕司監督や真喜屋力監督とお話をする機会があるのですが、お二人と自分はやはり映画観はそれぞれ違いますが、そんな不一致の中でも一致した感慨は映画らしい映画が少なくなったこと。中江氏などは「最近の映画、特に日本の映画は、テレビドラマばかりで映画ではない。」といつも言っておられます。
ノスタルジー的なことを言えば、フィルム上映で各巻の変わり目(約15分ごと)に、フィルムが痛んでいるためにサウンドトラックのプチプチという雑音が入り、画面右上に白い◯が出たりするのが映画だったりもします。
新しいブログ、有料版なのですか?。広告が入らないのが良いですね。自分も広告なしなのでBloggerを3週間前から使い始めました。ではまた…。
2013.02.06
ラッコのチャーリー
3 件のコメント:
こんばんは。
コメントできるようになって安心しました。
映画が映画でなくなっていくのはなんとも寂しいですね。
映画らしい満足を得られる作品は、おのずとシネコンではなく単館に集まって行くような気がします。
先日観てきた『レ・ミゼラブル』は素晴らしかったですが。
桜坂劇場のこと、
詳しく教えてくださってありがとうございました。
忠告に気をつけながら、足を伸ばせたらぜひ出かけてみます。
haruさん、こんばんは。
フジフィルムが映画用のフィルム生産からの撤退を発表してますよね。残るはコダックとアグファですか。自分に直接関係のあることでは、いつまで写真用フィルムや印画紙が残るかです。最悪白黒フィルムと印画紙の生産はあとしばらく、自分が生きている間は続けて欲しいです。若い人ではなく自分ぐらいの年齢の人でも、「画質で比べればフィルムよりデジタルの方が良いのだから」とフィルム映画の画質の味を知らない人の発言を最近よくネット上で目にします。『フィッシュ・タンク』と同時に「三大映画祭週間2012」で公開された『ミヒャエル』の監督(マルクス・シュラインツァー氏:ハネケのキャスティングディレクターなどやっていた人)は、デジタルとフィルムの画質の持つ客観性・主観性などの違いをどこかで話していました。わかっている人にはわかる差で、だからこそフィルムによる映画は残って欲しいです。
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