2013/02/03

2つのルールのせめぎ合い



そして言葉やコミュニケーションの喪失


日常の些細なトラブルや不快な出来事、あるいは今日ならばAKB48の峯岸みなみ丸刈り謝罪の報に接して、社会のいろいろなことを考えるのに、便宜的に2つのルールの存在を考えてみる。「人として」やって良いとか悪いとかといった第一のルール。それと役割を規定するする第二のルール。以下ではそれぞれをとりあえず「人間ルール」と「役割ルール」と呼ぶことにする。



この2つのルールが互いに調和していればよいのだが、しばしば2つは相矛盾し、そこに事件や問題が生じる。たとえば人間ルールによれば、人を虐待したり拷問をしたりしてはならない。ところが役割ルールによれば軍隊では上官の命令には従わなければならない。上官に敵捕虜の拷問を命じられたとき部下はどちらのルールに従うべきなのか。敵捕虜虐待の例ではないが、こうしてユダヤ人の大虐殺のようなことが起こる。戦争に負けて軍事法廷で裁かれるとき、ヒットラーなり、ヒムラーとか、そういうトップが命じたのだから彼らだけに戦争責任(あるいは人道に対する罪)があるのか。それとも役割ルールに従い、人間ルールを顧慮せず、嫌々であっても罪に加担したということで収容所の下っ端の一看守にも責任があるのか。

話が大きくなってしまったが、人間ルールが役割ルールよりも優勢である方向に社会をもっていくべきなのではないか。そして日常の些細な出来事や不快感を分析するに、どうも日本の社会というのは、政治とか国家権力とかいったことはここでは扱わないとして、もっと身近な日常の生活や民間のいろいろな出来事において、役割ルールが優勢であり過ぎるような気がしてならない。

人間ルールに従えば特に親しくない間柄では、しかるべき社会人としての大人なら、互いに丁寧な言葉遣いをするはずだ。ところが役割ルールでは上司は部下よりも偉いので、上司は部下を呼び捨てなり君付けで呼び、部下は敬語を使う。かつて存在した東京銀行は、もともと日本で唯一の外国為替銀行だった。なので日本の銀行(あるいはもっと広く企業)の中でいちばん欧風の文化が入っていたのかも知れない。上司も部下も互いに「◯◯さん」と「さん付け」で呼び、丁寧語を使う伝統があった。合併に合併を重ねて三菱東京UFJ銀行となった今は、残念だがきっとそんな文化はもうないだろう。会社内での役割ルールの優勢は、パワハラ・セクハラを生み、違法性のあるような会社の不正な行為(商売)を助長する。あるいはサービス残業とか過労死の温床となる。

目の前の相手を指して言う代名詞に、英語では you しかないが、フランス語やドイツ語では敬称の vous や Sie と親称の tu や du の2つの使い分けがある。最近は親しみを込めて親称の tu や du を最初から使うこともあるというようなカジュアルな社会になったが、元来見知らぬ者同士や距離のある関係では敬称の vous や Sie を使い、親しくなると親称の tu や du を使うようになる。ドイツでは昔、それまで敬称の Sie を使っていた2人が親称の du を使うことにする際に儀式めいたことまでしたらしい。今のフランスでは最初 vous を使っていても、窮屈感を感じて「 tu でしゃべっていい?。」なんて訊いてくる。映画の中でもときどき見られるシーンだ。でもここで重要なのは「互いに」敬称の vous か Sie を使うか、「互いに」親称の tu か du を使うかという選択だということだ。普通の家庭なら親子でも互いに親称の tu や du を使う。

ただ他人の大人と子供との会話では、子供は大人に対して敬称を使い、大人は子供に親称を使うというのはある。大人が子供より「人として」偉いというわけではなくとも、子供は大人に敬意をもって接するというのが善き躾だろう。子供はまだ半人前なのだから。小学生がどこかの店に買い物に行けば、その子は「◯◯ありますか?。」と丁寧語でお店の人に尋ねるだろうし、対して店員は「ここにあるけど、いくついるの?。」と tu や du を使って話すだろう。日本で大人の店員が小学生の客に対して「まことに申し訳ございません。ただいまその商品は切らしておりまして。」と敬語を使って話しているのにたまに出会うけれど、まったくもって滑稽だ。「ごめんね、いま売り切れなんだ。」で十分だ。店員は店の方針にバカ忠実に従っているだけなのだけれど、つまりは人間ルールよりも役割ルールが勝っているということだ。子供と大人というのは役割ルールではないのか?、と誤解しないで欲しい。子供と大人というのは役割を入れ替わることはできない。

高校生の頃、非常勤講師として来ていたK先生にこんなエピソードを聞いた。パリで中高級のホテル(たぶん★★★クラスだろう)のレストランでのこと。K先生が食事をしていると、もちろん先生を含め周囲はネクタイ着用でなくともそれなりにふさわしい服装をしているわけだが、そこに男性ばかりの数人の日本人宿泊客が下着に近い程度の格好でドカドカと現れた。ボーイはやや戸惑いながらも、超満席でもなければ普段は使うことも稀な、目立たないいちばん隅っこの席に彼らを案内した。そのボーイがK先生のテーブルに来たとき先生は「あんなジャポネ(日本人)は追い出しても良いのでは?。」と言った。するとボーイは「彼らも食事はしなければならない。でも彼らにとってはあの席がコンヴナーブル(ふさわしい)だ。」と言ったという。フランスのレストランでは、こちらが感じが良ければウエイターのサービスも良い。感じが悪ければサービスもぞんざいになる。何がなんでも「お客様」扱いする役割ルールよりも、人としての品位が問われ、人間ルールが生きているわけだ。

でもここでよく考えなければならないことがある。高額消費してくれるとかいう意味ではなく、客として感じが良いか悪いか、もっと言うと店に理不尽なクレームをつけたり店員に横柄な態度を取ることに快感や充実感を感じているような輩(やから)もいる。あなたが感じの良い品位のある客だったとして、自分がそうでない下品な輩と同じ扱いを受けることは嬉しいですか?。「お客様は神様です」という役割ルールが支配すると人間ルールは無視される。役割ルールに忠実であることは人間であることをやめて機械になることでもある。相手が機械ならば、自動販売機のボタンを普通に押しても、(そんなことが出来るとして)足でボタンを蹴飛ばしても商品は同じように出てくる。

最初に挙げたAKB48の峯岸みなみ丸刈り謝罪。この事例は、役割ルールが二重、三重…に機能した出来事ではないだろうか?。まず第一に恋愛は御法度という人間ルールを無視した役割ルールの存在。第二に彼女の男性スキャンダルを報じた週刊文春。第三にそれを期待する(喜んで読む)読者。そうした全体をも視座に入れてこのアイドルグループを運営する仕掛人のあり方が第四。自分に期待された丸刈り謝罪をした峯岸みなみのあり方が第五。こういうアイドルあるいは芸能世界を容認している社会が第六。まだあるかも知れないが、これらすべてが人間ルールに対する役割ルールの優勢の結果だ。人間ルールに従えば上の6点はすべて霧散、消え去ってしまう。

これまで書いてきたこととどうつながるかやや疑問ではあるが、関連したこととして最近気になり、不快感を感じているのは(もうかなり昔から言われていることだけれど)、言葉を発しなくなってしまった日本人だ。人間関係に於いて、片方だけがしゃべるというのはやや異常だ。またフランスの例で申し訳ないが、自分の知っていることを比較の対象にするのはやむを得ない。フランスで個人店舗に入ったら、店員あるいは店の女主人が中高年の女性だったとして、自分「ボンジュール、マダム」、女主人「ボンジュール、ムッシユー」から始まる。女主人「何をお探しでしょうか」。自分「◯◯が欲しいんですが」あるいは「ちょっと店内いろいろ見せて下さい」と進み、(中略)支払いをして商品を受け取って、客である自分の方が「メルシー・ボークー、マダム」、女主人「オールヴォワール、ムッシュー」、自分「オールヴォワール、マダム」という流れが基本だ。ここには、日本での現状から比べれば、言葉の洪水がある。

こんな習慣のところに、日本人観光客が行って押し黙って何も言わない。言葉が出来なくともボンジュールやメルシーぐらいは言えるだろうし、表情でのコミュニケーションだってある。無表情で何も言わない日本人は不気味がられてしまう。(特に日本人が不気味がられるなら、日本人が世界標準から外れているということだ。)女の子2人なら内輪二人でケラケラ笑ったり、「これかわい~い!」なんて言いながら、店の人とはろくに言葉をかわさない。あるいは男性の場合など日本と同じつもりで「お客様」として横柄な態度で接する。本来あるはずの人と人との(ここでは店の人と客との)関係が希薄。つまり見知らぬ人に出会って、買い物行為という共同作業をしている人と人との間に当然あってよいマナーのような人間ルールが無視されている。

以前フランスを車で旅行していて、高速道路の料金所で通行券を渡したとき、ブースの中の女性に「ボンジュール」と言われてちょっと面食らったことがあった。もちろん自分もとっさに笑顔で「ボンジュール、マドモワゼル」と言ったけれど、料金を払い終えると彼女が「ボンヌ・ルートゥ!」(お気をつけてぐらいの意味)、自分は「メルシー」で終わった。交通量がいくら少ないときでも日本で料金所のおじさんに挨拶されたことなど一度もない。それはそういうマニュアルがないからであるが、フランスの料金所ではマニュアルはないけれど女性係員は挨拶をした。(以前週に何度も利用して顔見知りになっていた第三京浜川崎料金所のおじさんには、こちらから「こんにちは」と挨拶して二言三言言葉を交わしていたことはあったが…。)

つまり、ここにはまず対等ということがあるのだけれど(役割ルールでは対等でない)、人と人とのコミュニケーションが、たとえ一回限りの短い時間のものであっても存在している。そしてそれは人間ルールに準拠している。フランス人の性のコミュニケーションが盛んで(?)、日本人は最もセックスをしない国民であるという統計も、言葉によるコミュニケーションの場合と同じ根を持っているのかも知れない。あるいはドキュメンタリー映画『コミュニストはSEXがお上手?』にあったように、対等という男女の人間関係(それは役割ではなく人間ルールの結果だと思うけれど)が人間ルールに則ったSEXにつながるのかも知れない。
『コミュニストはSEXがお上手?』


ではなぜ言葉を発しないのか。店員の方には役割ルールがあるから客に対してバカ丁寧な言葉を客に対して使う。しかし客の方は役割ルールで神様であるお客様の立場だから何でも許される。きれいにプレゼントラッピングをしてもらったとしてもそれは当然のことであり、わざわざ「ありがとう」なんて言う必要はない。でもここでもし(本音で)「わ~っ!、きれいに作ってくださって、ありがとう」って言ったらどうだろう。ラッピングをした店員も内心嬉しいし、表情も綻ぶだろう。ここに人と人とのコミュニケーションが成立する。これは人間ルールによる出来事だ。しかし役割ルールよりも人間ルールを優先して行動することは、少なくともここでなら店員の側からすることは許されない。そして社会全般にわたって人間ルールよりも役割ルールを尊重することを求められている日本人の日常においては、本当に仲の良い友だち間といった場合を除いて、いつも人と人との本当のコミュニケーションを欠いた役割的会話しかしていない。それは楽しくないし、店員とかいった側の立場にあるとき、横柄な客にマニュアル的に丁寧な言葉で接することにはウンザリしている。だから勢い他の場面でも言葉を発しなくなる。客が言葉を発するとき、それはもし人間ルールに則った言葉なら自分を相手の店員と人として対等であることを認めることだから、優位にいた方が嬉しいと思えばそんなことはしない。そして言葉を発するなら、役割ルールからして自分の方が相手より優位であることを確認するための横柄な言葉なのである。

人間ルールの復権を求めてやまない。






2013.02.03   
ラッコのチャーリー



0 件のコメント: