2013/02/20

『東京家族』Tokyo Family



Vous pouvez lire en français une critique au bas de la page.




Tokyo Kazoku
aka:Tokyo Family
監督:山田洋次
Yōji Yamada
撮影:近森眞史
出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優、荒川ちか
2013年松竹 146分カラー
2013.02.20 シネマQ ホール4にて(ポイントによる無料鑑賞)
映画度:前半が★★/5、後半は★★★★/5*


80歳を超えた山田洋次監督の新作『東京家族』を見てきた。山田監督の映画は特に見たいとは思わない自分だが、小津安二郎の名作『東京物語』のリメイクとあってはとりあえず見ておかなくてはという理由で、スターシアターズのポイントも貯まっていたので無料で鑑賞してきた。

橋爪功 ← 笠智衆、吉行和子 ← 東山千栄子
(広島県の故郷に住む老父母)

西村雅彦 ← 山村聡、夏川結衣 ← 三宅邦子
(東京の開業医をする長男とその妻)

中嶋朋子 ← 杉村春子、林家正蔵 ← 中村伸郎
(美容師の長女とその夫)

妻夫木聡 ← 大坂志郎
蒼井優 ← 原節子
荒川ちか ← 香川京子

時代設定は21世紀の今日になっているが、人物設定は老夫婦、長男夫妻、長女夫妻までは小津の原作とほとんど変わらない。大阪に住む鉄道員の大坂志郎が定職にはつかずフリーター(と言っても舞台美術の仕事をしたいらしい)で東京住まいの妻夫木聡に変わり、戦死した長男の未亡人の原節子が妻夫木聡の恋人(婚約者)になり、故郷で老父母と暮らす末娘の香川京子が老夫婦の隣家の女子中学生の荒川ちかに変わっている。小津の『東京物語』は世界の古典・名作なのでストーリーはここでは割愛する。よく憶えていない方はWikipediaなどを参照していただきたい。


このリメイク映画は146分と小津の原作136分よりもまだ長いのだけれど、上映が始まってちょっとイヤな予感。この映画の撮影が順撮りされたのかどうかは知らないが、なんとも演技もセリフもすべてがぎこちない。リアリティーがない。老齢になって山田監督もボケてしまったかとまで危惧した。演技もシーンも監督が制御できていない感じなのだ。でもまあだんだんに物語も動き出していく。


エンドロールは最後から2番目の画面に「小津安二郎に捧ぐ」と出て、いちばん最後に「監督:山田洋次」と出る。そう言えば山田監督には1970年頃に大阪万博を取り込んだ家族のロードムービー『家族』があった。主演は笠智衆であり、この作品も山田監督の小津への敬意があったのかも知れない。今回のリメイクでも、小津の映画と違い家の階段はしっかりと映るけれど(もっとも『東京物語』は小津の作品でも階段を写さない技法はややアバウト)、小津を思わせるローアングルのカメラも多用され、セリフも同じものの引用はあり(冒頭の「お刺身も」「いや肉だけで十分」とか)、画面構成にも引用がある。


しかしこの2作はまったくもってコンセプトが違うような気がする。リメイクはコピーではないからそれで良いのだけれど、それは新たな何かの創造を目的としている場合である。有名ミュージシアンの有名曲がトリビュートとか称してカバーされることがある。もとのロックがスラッシュメタルでカバーされる。有能なミュージシアンンによるカバーならそのカバー自体が魅力的だ。でもおうおうに原曲とあまり変わらないカバーというのもあって原曲よりはるかにつまらない。


山田洋次の『東京家族』の前半はこのような無意味なカバーでも聴いているかのごとく進んでいく。妻夫木聡の3・11ボランティアの話はまだしも、横浜の観覧車をホテルの窓から眺めながら『第三の男』のウイーン・プラターの観覧車を引き合いに出すなど安っぽい限りだ。だいたいがもし映画人としてオーソン・ウエルズに敬意を表したいなら俳優としてのウエルズではなく、監督ウエルズに敬意を表するべきだ。土産物のスノーボールでも写せば事足りる(笑!)。

ところでこの映画の宣伝コピーに「これは、あなたの物語です。」というのがあった。予告編の最後の方に出てくる。宣伝は宣伝で、広告だから必ずしも監督の意図からは離れているかも知れない。しかしこのコピーが暗示する内容がくせ者であり、またそれが『東京物語』の小津のコンセプトとは大きく異なる点ではないだろうか。思い出すのは是枝裕和の『歩いても 歩いても』。この映画も多くの観客にかなり好評だったらしい。人々は自分と似たような家族を見ることで安心をしたいのだろう。でも問題点や欠点を「そんなもの」と肯定してしまっては改善も進歩もない。戦争肯定映画と同じ効果を生むだけだ。


ちょっと面白いと思ったのは『東京家族』のIMDbの観客の採点だ。投票はまだ27票(US user 1名の採点は5点、残りのNon-US users というのはたぶん日本人票で平均点が6.4点)しかないけれどすべてが男性で、全平均が6.3点である。うち7名の30~44歳の男性票が8点と高得点。現在普通に家庭の父親を現役で務めている世代の男性がこの映画の世界に安心を求めているのかも知れない。45以上の男性票は平均点5.7。45歳以上の男性は老父の方に感情移入して納得がいかないのかも知れない。

このリメイクを見ると、見る前から感じていたことではあるけれど、小津安二郎の描くホームドラマが決して現実肯定ではないことが改めてよくわかる。日本人が家族間で持つ心的感情、情緒、そういうものを深く理解し、またそこに郷愁のようなものを感じながらも、小津にはそれに対する批判が含まれている。批判といって言い過ぎならば小津作品には、そうした日本人の家族間の感情が求めるようなことを全的に実現することが不可能であり、不可能を求めることに対する不条理が描かれている。そしてセリフの一つ一つがいかに全体の中で意味を持っていたかがわかる。


だから小津の作品はホームドラマであっても寂しいものであり、人が本来一人一人皆孤独であることを自覚し、受け入れなければならないことを語っている。日本人の人間関係のあり方では普段覆い隠されている本来的な人間の孤独を描いているのだ。日本的な人間の世界を描いているようで、小津という人の哲学はむしろ西洋的であることがわかる。そしてこのような日本人的心情は実は人間にとって普遍的なものでもあり、西洋人の中にも健在化してはないけれど存在するわけで、だからこそ欧米で小津が高く評価されるのだろう。親が子供を支配したがり、自分の理想とするような人生を歩ませようと思うことや、子供が親に対する愛情を持ちながらも、親に逆らってでも自分の生きたいように生きたいと思うことは、洋の東西を問わない。小津が評価されるのは決してそのローアングルのためではない。


このリメイクでの人物設定に変更がある点は上に書いたが、その変更でクローズアップされるべきは妻夫木聡と蒼井優のカップルだ。小津の『東京物語』の笠智衆は妻や、酒を飲んで旧知に子供たちの愚痴をこぼすことはあっても、子供に対しては文句らしきは言わないという慎みを持っていた。しかし『東京家族』では次男(妻夫木聡)を定職にもつかず、ふらふらフリーターをして安易に生きていると直接に不機嫌をぶつける。人物設定の変更はコンセプトの変更でもある。ここで山田洋次は小津安二郎から離れたと言える。


映画はここから面白くなるのだけれど、それはもっぱら蒼井優のキャラクターと演技によるものだ。蒼井優のここでの演技を見るためならこの映画をもう一度見たいとも思う。だが一方で小津の持っていた哲学的世界からは離れ、急に卑小で下世話な人間の物語になってしまう。『東京物語』は1953年公開だから1903年12月生まれの小津安二郎は撮影当時49歳。一方山田洋次は1931年9月生まれだからこの『東京家族』撮影時はたぶん81歳。山田監督が小津安二郎が好きでもかまわないが、人間の本来的孤独を描いた小津作品の持つ魅力とはかけ離れた卑小な人間ドラマをリメイクとして作ったことは残念だ。実際のところ山田監督は小津作品の本質を理解できていないのではないかとさえ感じてしまう。

最近見た別の映画の中のセリフを最後に引用したい。作家アルベール・カミュの自伝的小説遺稿の映画化である『最初の人間』からだ。息子はパリで作家として活躍し、母親はアルジェリアに一人寂しく暮らしている。久しぶりに訪れた息子に母は言う。

「お前が幸せなら、わたしにはそれだけで十分よ。」



*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係




2013.02.20   
ラッコのチャーリー



C'est un remake d'après le chef-d'œuvre Voyage à Tokyo(東京物語)de Yasujirō Ozu (quelle audace!) par Yōji Yamada, réalisateur de quatre-vinghtaine renommé pour la série de films Otoko wa tsurai yo (48 titres entre1969 et 1995). La projection commence par le même logotype du Mont Fuji de la production Shochiku, comme celles d'Ozu. Le début diffère déja de celui d'Ozu. La fille cadette Kyoko, institutrice, qui vivait avec ses parents à la province est supprimée dans ce remake (dont le rôle est un peu remplacé par la collégienne de la maison voisine), et l'histoire commence directement par les scènes à Tokyo. Ce n'est pas la locomotive à vapeur mais le Shinkansen, nous somme au XXIe siècle.

Les personnages (frère, sœur, leurs époux) sont les mêmes et la conversation aussi (le dialogue est emprunté du film original). La caméra est en quelque sorte à position basse comme Ozu. Mais le film ne file pas, ne marche pas. Ce qui m'a même donné la crainte de la gâtisme du réalisateur âgé; ni l'image, ni la scène, ni le jeu des acteurs n'est maîtrisé. Cependant, petit à petit, la narration commence à démarrer. Dans le film original la charmante actrice Setsuko Hara a joué gracieusement la belle-fille, veuve du deuxième fils mort à la guerre. Ce fils décédé n'existe pas dans ce remake et le fils cadet, cheminot, qui vivait à Osaka, grande ville qui se situe entre la capitale Tokyo et leur province, est remplacé par le deuxième fils Shoji habitant aussi à Tokyo, dont la fiancéé Noriko (jouée par Yû Aoi) est le rôle qui succède celui de Setsuko Hara. Visitant avec sa femme, les enfants à Tokyo, le père n'est pas tout à fait content de leur condition de vie (travail, logement etc...). À ses yeux les enfants n'ont pas réalisé son attente idéale. Mais quand même le père avait la juste discrétion de ne pas le leur avouer.

Par contre, dans ce remake le père reproche surtout fortement Shoji sans emploi fixe. Ici l'histoire tombe d'un coup à une simple comédie familiale très banale. Ce qui nous attire un film d'Ozu, c'est quelque chose de plus philosophique; la condition humaine de la solitude par exemple. La conversation et l'image sont très bien calculées, avec sa diction de la langue japonaise plus ou moins peu naturelle. Contrairement à l'apparence d'une description banale d'une famille traditionnelle à la japonaise, son point de vue était plus occidental, dire individualisme, seulement avec une dose de nostalgie. Ozu savait bien la solitude originaire de nous, les mortels. C'était là la charme d'Ozu.

La conversation monotone et lente avec sa diction un peu irréelle (peut-être pas pour les spectateurs qui ne comprennent pas japonais mais on a, nous les Japonais, l'impression de cet aspect factice de la langage). L'infraction exprès de la règle des 180 degrés pour le champs-contrechamp. L'effacement de l'escalier dans la maison à un étage (pas très stricte dans Voyage à Tokyo) comme pour situer les deux espaces du rez-de-chaussée et de la première étage aux univers d'une autre dimension; on a pour ainsi dire une impression que les deux univers ne se communiquent pas. Et il y a aussi sa fameuse position basse de la caméra. Avec tout cela, disons sa technique, et sous une apparence d'une simple comédie familiale, Ozu poursuit et exprime la recherche de l'existence humaine fondamentale.

Tous à la fin du film remake, Yōji Yamada a mentionné Dédié à Yasujirō Ozu. Toutefois ce réalisateur de la série Otoko wa tsurai yo n'appréciait pas jadis les œuvres d'Ozu; étant trop banale et toujours les histoires semblables, selon lui. Il ne pouvait peut-être pas comprendre ce que Ozu voulait rechercher philosophiquement. Et puisqu'il a fait cette adaptation en trop banale comédie, quoique la dédicace, il ne le comprend toujours pas. 

(écrit par racquo)

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