原題:Et si on vivait tous ensemble ?
監督:ステファン・ロブラン
撮影:ドミニク・コラン
2011年フランス・ドイツ 96分カラー
出演:ジェーン・フォンダ、ピエール・リシャール、ジェラルディン・チャップリン、ギイ・ブドス、クロード・リッシュ、ダニエル・ブリュール
2013.02.06 桜坂劇場ホールBにて
ジャンヌ(ジェーン・フォンダ):ティーンの頃親とともにアメリカからフランスに移住。ソルボンヌ大学で学び、退職までパリ大学分校の一つナンテール大学で哲学を教えていた。元気そうだが病気が進行しているらしく、棺桶屋で棺の注文などしており、死に際のことを考えている。
アルベール(ピエール・リシャール):ジャンヌの夫。飼い犬のブリアード犬のオスカルをこよなく愛し、それが生き甲斐でもあるが、なにぶん老齢での大型犬の世話には無理があり、それが原因の怪我で入院。娘は小型犬を勧めオスカルを里親探しの施設に入れてしまう。ジャンとクロードはその犬を施設から引き取り、退院して家に戻ったアルベールのもとに帰す。認知症で短期記憶障害が進んでいて、備忘録のために普段の出来事などを日記に書いている。
アニー(ジェラルディン・チャップリン):パリ近郊のオー・ド・セーヌ県に広い庭のある大きな邸宅(彼女が相続した)に夫ジャンと暮らしている。「みんなで一緒に暮らしたら?」という夫の提案に最初は反対の彼女だが、結局友人夫妻ジャンヌ&アルベール、友人クロードと5人での共同生活を始める。
ジャン(ギイ・ブドス):アニーの夫。若い頃から社会運動に熱心で、今もデモなどに参加しているが、警官が老齢の彼を逮捕しないことに不満を感じたりもしている。心臓発作で倒れた友人クロードを息子は老人施設に入所させるが、そこを訪れた際「こんな施設に親友を入れておけない」と、ジャンヌ、アルベール、アニーと共に密かに連れ出し、家に連れてくる。
クロード(クロード・リッシュ):息子はいるが結婚をしたことはなく、今も一人住まい、もともと写真家だが非常に女好きで、今も娼婦を買い疑似恋愛を楽しみ、また写真も撮っている。心臓発作を起こし息子に老人ホームに入れられるが、友人たちによって救出(?)される。発作以来不能になるが、心臓病ゆえに自分には処方してもらえないバイアグラの入手をディルクに頼む。
ディルク(ダニエル・ブリュール):ナンテール大学で民族学を学ぶドイツからの留学生。ジャンヌの紹介でアルベールの愛犬の散歩係にバイトで雇われる。もともと1年の半分をオーストラリアでフィールドワークし、アボリジニか何かの老人の社会的位置の研究をしていたが、犬の世話係になったことで研究対象をフランスの老人に変え、アニーの家に住み込みで5人の老人の共同生活を観察すると同時に、一人だけ元気な若者として老人5人の世話係にもなる。
ジェーン・フォンダが40年ぶりにフランス映画に出演、とうたわれている。最後は1972年ゴダールの『万事快調』だったということだろうか。死ぬ前にもう一度フランス映画に出たいというのは彼女の思いだったらしい。今回彼女を見て、あるいは聞いて、この人のフランス語、こんなに英語訛りがあったっけ?、というのが正直な感想。そしてその、なんというか、その英語訛りのフランス語があまり魅力的でなかった(これは予告編を見て既に感じていて、そのためにこの作品を観に行くのが遅くなった)。1966年の『獲物の分け前』をYouTubeで見て(聞いて)みたら、やはり同じ訛りはあったけれど、こちらはそれなりに魅力的な声。
これは若い女性信仰というわけではなく、どうも彼女は1977年の『ジュリア』頃から人が変わったというか、ある種の生気がなくなったというか、『バーバレラ』(1968)や『コールガール』(1971)の頃の魅力が失せてしまった。ハノイ・ジェーンと呼ばれた頃の政治活動やその影響、それが結果的に彼女の何かを失わせてしまったように思う。(これに関してはもっと深読みの想像も持っているけれど、それはここでは詳しく触れない。簡単に言えばある種に力に屈せざるを得なかったことが彼女を萎ませ、彼女本来の魅力を失わせてしまった。)
そしてこの彼女の変化のもう一つの原因は、この映画のテーマでもあることに関連している。それは彼女が40年間フランス映画に出なかったというように、彼女はフランス人映画監督ロジェ・ヴァディムと1973年に離婚し、アメリカに住むようになってしまった。フランス人の文化の特徴の一つは、恋愛(そしてこれにはもちろんセックスも含まれる)が人の生き方の中心に大きく位置していることではないかとボクは思っている。それだから四十、五十、あるいはそれ以上の年齢の女性が(もちろん男性も)、女として生き生きとして魅力的なのだ。ティーンや二十歳そこそこの「ただ若いこと」による女性の魅力は当然あるけれど、そうではなく年齢を重ねながらも魅力的な「おんな」であることを維持する努力を続ける(←こういうことは日本ではキモイということにもなりかねない)。そしてそれはもちろん恋愛のためなのだ。そういう社会にジェーンが住み続けていたら、きっと彼女はフランス人女性のような魅力を持つことができただろうけれど、アメリカではそれは無理だった。
この映画『みんなで一緒に暮らしたら』では逆に彼女はティーンの頃にフランスに移住し、フランスに定住したアメリカ人の役だ。男のケースだけれど、映画の中でたぶんクロードがジャンヌに「まだ自分には男としての魅力があるか」、パラフレーズすれば「まだセックスアピールがあるか」と問うシーンがあった。ちなみに彼、彼女は八十代の役である。そして、もちろんこれは映画であるから誇張はあるけれど、こうしたフランス人恋愛文化が、実はこの映画の基本テーマなのかも知れない。
若いディルク(こちらはドイツ人留学生)にジャンヌは恋愛ゲームのようなものを仕掛ける。恋愛に関して老練なジャンヌはまだ若いディルク(彼はフランス人でなくドイツ人)を翻弄するようなことを言う。またもちろん彼のフランス人の恋人とのことが語られ、また最後近くでは新しいお手伝いさん(?)との恋愛関係も描かれる。この映画はなるほど老齢になった者にとっての幸せ、生き方、クオリティー・オブ・ライフはなんであるか、また人生最後の死への引き際はどうしよう、という話だけれど、その中心にあるのは恋愛なのである。この作品に対する日本の観客の評価は必ずしも高くはないが、それは日本人の基本ライフスタイル、生き甲斐に恋愛が組み込まれていないからかも知れない。日本映画では、若いカップルや中高年でも不倫カップルのセックスはよく描かれるが、結婚5年、10年、20年の夫婦のセックスが描かれることは非常に稀だ。
この映画を観ていてアンナ・ガヴァルダ Anna Gavalda の «Ensemble, c'est tout» という小説を思い出した。日本語訳のタイトルは『恋するよりも素敵なこと―パリ七区のお伽話』で、オドレイ・トトゥ、ギヨーム・カネ主演で『幸せになるための恋のレシピ』として映画化された。この小説は原語で564ページという大部の長編なのだけれど、ちょうど1年ぐらい前に映画のことは知らずに読んだ。面白い、読んでいて心地良いのでどんどん読み進む。でもあまりに描かれた世界が魅力的なので読み終えてしまいたくない、という葛藤のあった読書だった。好奇心から映画もDVDで見たが、映画自体の良し悪しという意味ではなく、読書によって得られた快感はない別物だった。
このガヴァルダの小説はひょんなことから広いアパルトマンで、2人の若い男と1人の若い女が、そして途中から男のうちの一人の老齢の祖母が、同居し、共同生活を送る物語。それぞれが個室を持ち、別々に(個人主義的に?)生活していながら、どの一人も他の三人に対して、あるいは四人の全体にとって、なんらかの役にたっているという世界だ。この映画『みんなで一緒に暮らしたら』の場合は6人の構成は2組の老夫婦とその友人、それに助っ人役の若者というものだが、夫婦・夫婦・友人・若者という4者ではなく、6人がそれぞれ別々に生活しながら、互いにそれぞれ何らかの役にたっている。(ちなみに夫婦というのは元来血縁的には他人である。)
今自分は玄関は一つだが中には階段があって上下2つの階からなる広い賃貸マンションに夫婦とその4歳の子供、友人の女性、自分という5名でルームシェアして住んでいる。5名一緒に食事をすることもあれば、その日仕事の休みが重なった2名とか3名で昼食やお茶をすることもある。きれい好きもいれば、料理好きもいる。幼児は幼児で子供らしさの魅力で大人を癒す。幼児の方も親以外の大人と接するのは嬉しい様子だ。こういう疑似家族とでも呼んでよいような生活は、実際の血縁家族とは違い、精神的束縛感が少ない。実際の親子や兄弟などでは、成人もしている子供を親が支配したがり…と、互いに相手に対する役割期待がある。他人なら基本これがないのだ。
2013.02.13
ラッコのチャーリー
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