自分はある程度フランス語はわかるけれど、ペラペラってわけではない。パリで映画を観るとき、あるいは日本でも輸入PAL盤DVDなどで字幕なしでフランス語フランス映画を観るとき、言葉はほぼ全部わかることもあるが、おおむね6割から9割程度だ。
少し前のこと、あるフランス映画を映画館に見に行った。上映が始まりタイトル等が出終わるとすぐに独白が始まるのだけれど字幕が出ない。会話の部分に入っても字幕は出ず、4~5分が経過して上映は止まった。「たいへん失礼いたしました。もう一度最初から上映させていただきます。」のアナウンス。そして最初の(やや長めの)タイトルロールから映写し直し。今度は字幕がちゃんと出た。フィルム上映ならフィルム自体に字幕は入っているからこういう事故は起きないが、デジタル上映だとプロジェクターの設定を誤ればこういう出来事もありだ。
その最初の字幕なしの映写、自分はそのフランス語がほぼ聞き取れ、意味もわかった。ところが2度目の字幕入りの上映では、どうしても画面下の日本語に目が行ってしまう。周囲がフランス語ばかりのフランス旅行中とかではないし、それにもともとやはりフランス語より日本語の方がはるかに得意だから。そうするとフランス語は聞こえていても、あまり聴かなくなってしまう。さっき字幕が出なかったときの方が幸せに感じた。
正方形か円形のテーブルに4人で座っていたときに実際に経験した言語の干渉と非干渉。上から俯瞰で見てA、B、C、Dの4人が時計の12時、3時、6時、9時の位置に座っていた。4人が4人全員で一つの会話をしているときには何の問題もない。あるいはAとB、CとDのそれぞれ90度隣りに座った2人ずつが別の会話をするのもほとんど問題はない。ところがAとC、BとDの対面した2人ずつが別の会話をすると、他の2人の会話が耳に入って気持ちよく自分の相手と会話ができない。関係ない2人の会話が耳に入ってきてしまうからだ。隣の場合はA⇔B、C⇔Dの2回線の会話は交差しないけれど、対面の場合はA⇔C、B⇔Dの2回線の会話が交差しているかららしい。
ところが同じ対面の2つの会話でも、AとCである自分は相手とフランス語で話し、BとDの2人は日本語で話していると不都合はない。BとDの日本語の会話は耳に入ってこない。Aとフランス語で会話をしているCである自分の言語中枢(専門的に何と呼んでよいのかは知らないけれど)はたぶんフランス語モードになっていて、だから日本語は邪魔にならない。でも自分もAと日本語で話しているときには、ボクの言語中枢は日本語モードになっているので、聞きたくないBとDの会話の日本語も入ってきてしまう。
日本語字幕入りのフランス語映画を観る場合もこれと基本的に同じなのだろう。だいたい視覚は映画の画面を見ることに集中しているから、当然字幕も目に入ってしまう。すると言語中枢は日本語モードになってしまい、フランス語は聞こえていても、かなり努力して意識しないとフランス語はなかなか十分に脳に届いてくれない。今はDVDになって字幕あり・字幕なしを選択できるが、以前のビデオはそうはいかなかった。だからどうしても原語のみで鑑賞したいときは、画面の一部も欠けてしまうが、テレビ画面の下部に紙を貼って字幕が見えないようにしていた。
そして昨日桜坂劇場に観にいったのは『最初の人間』。映画が始まって少しして、フランス語のセリフがいたって簡単なフランス語ばかりであることに気づいた。語彙が難しかったりすれば理解度が低くなるから、どうしてもいつの間にか日本語字幕に頼ってしまう。でもこれならと思い、字幕をいつの間にか読んでいるということのないように音声のフランス語に集中した。ただこの映画の場合はアラビア語も出てくるので、そこは日本語字幕を見なければならないのがちょっとやっかいではあったが。
もちろん日本映画を観るときは当然だけれど、フランス映画を字幕なしで観ていると実に画面(映像)を良く見ている。さっきの上映ミスのときも、一度目字幕なしのときにじっくり見ていた映像を、字幕があるといかに不十分にしか見ていないことがわかった。だから一度目の方が幸せだったと書いたのだ。芝居的な映画というのもあり、それはそれで名作、傑作、好きな作品はあるけれど、やはり映画の映画たるゆえんの一つは映像表現だろう。例えばシリアスな場面で役者が良い表情表現をしていることがある。しかしストーリーから落ちないないようにときゅうきゅうとして字幕を見すぎていると、その名演技の大部分は見逃してしまう。
だから、最近は行っていないけれど、フランスに旅行してパリでフランス映画を観るのは好きだ。パリに行くと一日に3本くらい映画館をはしごしてしまう。もちろん日本では劇場でもDVDでも未公開の作品を観るためでもあるが、言葉は7割しかわからなくても日本で字幕入りで100%(と言っても限られた字数の字幕の範囲)言葉をわかって観るより「映画」を楽しめるからだ。映画の画面は連続的に動いているけれど、字幕は何も無い無垢の画面の下に突然現れ、突然消えたり次のに変わる。字幕は見ないように努力していても、連続的なスムースな動きの画面に突然の変化(つまりは字幕の唐突な出現)があると、どうしても目を引かれてしまうのがやっかいなのだ。
自分はフランス映画でもないのにわざわざフランス盤DVDを買うことがある。その理由は日本盤がないからの場合もあるし、フランス盤の方が日本盤をよりはるかに安いからだ。ベルイマンとかハネケとかの作品の場合、アマゾン・フランスでは新品がたった3ユーロ(円安傾向の今日のレートでも四百円以下)程度のものも多い。高い送料(と言っても十数ユーロ)を加えても日本盤を4千円、6千円出して買うよりも安価だ。日本で廃盤のDVDなど、たとえばベルイマンの『夜の儀式』が欲しいとしたら、日本のアマゾン・マーケットプレイスに出ている中古盤は5万8千円。アマゾン・フランスなら『リハーサルの後で』と『夜の儀式』のカップリング盤の新品が12.90ユーロ。送料11.50ユーロを加えて24.40ユーロで、1ユーロ126円で計算して3,074円。日本の中古盤58,340円(送料込み)の約19分の1だ。ちなみに『リハーサルの後で』も合わせて日本の中古盤を買ったら、65,835円になってしまう。
少し脱線して日本市場で(ある種の映画の)DVDがいかに高いかを書いてしまったけれど、そうして買った海外盤DVDを観て気付いた字幕に関するもう一つの点がある。それは言語の背後にある文化の問題だ。日本とイギリスでは、同じ島国ということでの共通する文化があり、それは大陸国フランスにはあまり見られない、といった細部の個別の共通・異質の要素がないわけではない。しかし全体として見れば、フランス、イタリア、イギリス、ドイツ、ポーランド等々…のヨーロッパ文化は(より)似通っていて、極東の日本文化と比べると異質だ。なので例えばスウェーデンのイングマール・ベルイマンの映画を観るとき、自分にはスウェーデン語はほとんどわからないから字幕に頼るわけだけれど、どうもフランス語字幕で観ている方が日本語字幕で観るより、よりしっくり来ると言うか、違和感が少ない。
このことは実は非常に重要で、最初の方に書いた日本語字幕を読んでしまうことの弊害、あるいはそれを言語中枢のモードとして解釈したことを超えた意味があることに気付くことになる。ただ単に言葉、言語としての差だけではなく、日本語字幕を読むことは、そのとき日本語の背後にある日本文化に精神が縛られた状態でフランス映画なりを観ていることになる。だから上に書いた日本語字幕を読んでいるとフランス語が耳に入りにくいというのもこれと関係しているのかも知れない。たかが映画。されど映画。単に娯楽として楽しめばよいのかも知れないが、こんなこともついつい考えてしまう。
2013.02.14
ラッコのチャーリー
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