『卵』
原題:Yumurta
監督:セミフ・カプランオール
撮影:オズグル・エケン
出演:ネシャット・イシュレル、サーデット・ウシュル・アクソイ
2007年トルコ/ギリシア(97分カラー)
2011年11月 桜坂劇場にて
イスタンブールで暮らす詩人のユスフは、母親の死の知らせを受け、何年も帰っていなかった故郷に帰る。古びた家に帰るとアイラという美しい少女が彼を待っていた。ユスフは、5年間、母の面倒を見てくれていたというアイラの存在を知らず、アイラは母の遺言をユスフに告げる。そして、遺言を聞いたユスフは遺言を実行する為に旅に出る。失われていた記憶が甦ってくる。それは、ユスフ自身のルーツを辿る旅となった……。
イスタンブールの町で古本屋を商いつつ、その陰で詩人としても活動する男、ユスフ。彼はある日、すっかり疎遠になっていた母ゼーラの死の報せを受け取り、故郷へと還る。自宅に向かい扉を開いた彼は、そこに親戚の娘である少女アイラの姿を認める。彼女はユスフにゼーラの遺言を告げ、母のこの数年の面倒を見てきたことを語るのだった。けして親孝行とは言えぬユスフは、遺言に記された母の願いに従い旅に出ることにする。それは彼の過去をさかのぼる旅でもあった。セミフ・ラプランオールによって語られる自伝的作品「ユスフ三部作」第1作。(CinemaScapeより引用)
『ミルク』
原題:Süt
監督:セミフ・カプランオール
撮影:オズグル・エケン
出演:メリフ・セルチュク、バサク・コクルカヤ
2008年トルコ/フランス/ドイツ(102分カラー)
2011年11月 桜坂劇場にて
高校を卒業したばかりのユスフは、何よりも詩を書くことが好きで、書いた詩のいくつかを文学雑誌で発表し始めている。しかし、彼の書く詩も、母親のゼーラと共に営んでいる牛乳屋も二人の生活の足しにはなっていない。そんな中、母と町の駅長との親密な関係を目にしたユスフは当惑する。これがきっかけとなり、また幼少期の病気のせいで兵役に不適と判定されたこともあって、急に大人になることが不安になってしまうユスフ。果たして彼は、大人への一歩を踏み出すことができるのだろか……。
詩人を目指し、したためた数多の詩を雑誌に送りつけている少年ユスフは高校を卒業し、職業の選択を迫られていた。だが、母のゼーラが営む牛乳屋を継ぐにしても、あるいは夢である詩人活動にしても、生計を立てるには及ばない収入しか得られない仕事であった。ユスフは棄てられない夢を抱いて、鉱夫である友人に雑誌に載った詩を読んでもらい、またそのことで詩を愛する少女とも友情を育む。認められた才能に嬉しさを隠せないユスフだったが、そんな彼をよそに母は街の駅長との愛情に溺れてゆくのだった。セミフ・ラプランオール監督の「ユスフ三部作」第2弾。(CinemaScapeより引用)
『蜂蜜』
原題:Bal
監督:セミフ・カプランオール
撮影:バリス・オズビチェル
出演:ボラ・アルタシュ、エルダル・ベシクチオール、トゥリン・オゼン
2019年トルコ/ドイツ(105分カラー)
2011年11月 桜坂劇場にて
6歳のユスフは、手つかずの森林に囲まれた山岳で両親と共に暮らしている。幼いユスフにとって、森は神秘に満ちたおとぎの国で、養蜂家の父と森で過ごす時間が大好きだった。ある朝、ユスフは夢をみる。大好きな父にだけこっそりと夢をささやき、夢を分かち合う。ある日、森の蜂たちが忽然と姿を消し、父は蜂を探しに森深くに入っていく。その日を境にユスフの口から言葉が失われてしまう……。数日経っても父は帰ってこない。ユスフに心配をかけまいと毅然と振る舞っていた母も、日を追うごとに哀しみに暮れていく。そんな母を、ユスフは大嫌いだったミルクを飲んで励まそうとする。そしてユスフは、1人幻想的な森の奥へ入っていく……。
少年ユスフは木々の生い茂る森近くに両親とともに静かに暮らしている。養蜂を営む父親ヤクプは時として山中にユスフを伴って出かけ、木々の天辺に巣箱を取り付け、そこで蜂蜜を採集していた。ユスフにとって父親は尊敬の対象であったが、親たちとしか口をきかない彼は吃音に悩み、学校では上手に教科書を朗読して皆や教師の賞賛を得ようと奮闘するのだった。そんなある日、森から蜜蜂がいなくなってしまう。父は蜂を追って森の深奥に入り込んだまま消息を絶ち、それとともにユスフの口よりも声が消え去る。母親ゼーラは息子のために手を尽くすが、試みは実を結ばない。(CinemaScapeより引用)
2011年の11月だからもう1年以上前になるけれど、トルコの映画監督セミフ・カプランオールの「ユスフ三部作」なる映画を桜坂劇場で見た。同じユスフという名の子供、青年、大人の三つの時期を描いた3作品だけれど、必ずしも同一人物ユスフと考える必要はない。昨年の2月に同作品のDVDが出たとき、こういう作品のDVDはすぐ廃盤になる可能性があるので購入しておいたが、まだ封を切っていない。なかなか面白い作品だったので、いろいろとああだこうだと内容を思い出しながら、当時はブログを休んでいたのでTwitterに17回にわたって感想、というより作品を解釈する上で気づいたことを書いた。その17の断章を以下にまとめておこうと思う。もしかしたら18回以降にあたる覚書も後で加えるかも知れない。17回分の内容は変える意図はないが、なにぶんTwitterの140字制限という枠ゆえに省略もあり、読み易いように少し言葉を補ったところもある。
『卵』『ミルク』『蜂蜜』トルコのセミフ・カプランオール監督の「ユスフ三部作」を日曜に桜坂劇場で続けて見た。先日4時間半超の大作だが凡作『ヘヴンズストーリー』を見てウンザリしたが、映画はこういうスタイルの方が良い。3作をどういう順に見るにせよ、1作ずつ別個に見た方が良さそうだ。
ユスフ三部作②:とても面白い作品だった。140字のスペースを使っての一貫したレビューも少々無理だし、脈絡は考えずにさえずって(つぶやいて)みたい。ブログ等のレビューでは概ね好評だが、判で押したように似た感想が多いので、他の人があまり指摘してないことを書いてみたい。
ユスフ三部作③:『蜂蜜』で気になったこと。吃(ども)ることを知りながら教室で手を挙げるユスフ。別の子が読むのを口真似で追うユスフ。読みたいと申し出、その別の子が読むのを口真似して練習した「獅子と鼠」を読もうとするユスフ。床に落ちていて先生がユスフのだと間違えて渡した鉛筆削りをそのまま使うユスフ。隣の子のノートを奪い自分がやってきた宿題とするユスフ。
ユスフ三部作④:背景も物語も、色々異なる作品だけれど『卵』の空気感はアントニオーニを思わせた。要は駄目(中年)男の女にまつわる話。『ミルク』の川辺のシーンはキェシロフスキの引用?。多くの監督は映画作家以前に映画好きであり、意識の有無は別として映画的記憶が作品に現れるものだ。
ユスフ三部作⑤:『蜂蜜』でのユスフの吃(ども)りと父の癲癇(てんかん)発作と『ミルク』と『卵』でのユスフの癲癇発作に気づく観客は多い。でもどうだろう?。③で書いた『蜂蜜』での宿題盗用を考えると、『ミルク』で友人が渡した詩の手帳もやや気になってしまう。ユスフは友人の詩の一部を自分の作としたりしたのではないか?。
ユスフ三部作⑥:『ミルク』の脚本執筆中に前と後である『蜂蜜』と『卵』を着想したと監督は言う。ではなぜ③で指摘した『蜂蜜』の宿題盗用や鉛筆削りちゃっかり利用を監督は描いたのか?。『卵』冒頭でユスフの経営する小さな古本屋に料理の本を買いにきた女、『ミルク』の本屋で出会った女、そして『卵』での昔の女に対する態度。ここにも関連を見るべきだ。
ユスフ三部作⑦:『卵』でアイラから母の遺言の羊の供犠を聞いたときユスフは「信じない」と不信仰を告げる。『蜂蜜』には父がアッラーに祈るのが出てくるが、ベッドからその様子を垣間見る少年ユスフは冷淡な眼差しで見ていたような感じがした。不信心の根が既に描かれているのではないか。
ユスフ三部作⑧:不信心はイスラームがどうのという以前のこと。宗教に帰依しないということは、つまりは自己中心のエゴイズムに他ならない。その意味もあってこの『卵』はアントニオーニ臭がするのだ。そして恐らくは死んだ母の生前の願かけとはそんな息子ユスフの改心ではなかったろうか。そしてその強制療法が羊の供犠ではないか。(アイラと一緒になって息子がまともに生きることを願ったのかも知れない。)
ユスフ三部作⑨:『ミルク』の蛇は母の側の問題ではなくユスフの心象。母の「おんな性」の問題ではなくユスフの無理解・不寛容、エゴイズムの描写なのだ。『蜂蜜』で母がユスフに冷淡とも見えるが、それは息子のエゴイズム(男の女に対するエゴイズムを含め)を見抜いていたからではなかったか。
ユスフ三部作⑩:養蜂が出てくるのは『蜂蜜』だけで、この作はユスフと父との関係、ミルクを中心とした物語は『ミルク』で、この作は母との関係、卵を妊娠・出産のメタファーと解釈すれば、『卵』は男女関係としての女性との関係を中心とした物語だ。
ユスフ三部作⑪:「自分がいないときに家を支えるのはお前だ」というようなことを父が去る前に言うこともあり、父の不在が確定して気丈な母が泣くのを見て、ユスフが嫌いなミルクを飲むのが健気だという感想を多くの観客が書いているが、ことはそれほど簡単、あるいは美しいことなのだろうか。
ユスフ三部作⑫:『蜂蜜』のユスフは父親っ子で母とは疎遠な感じだ。ミルクは哺乳類の母が子に与えるものであり母性の象徴だから、ミルクを嫌うユスフは母性の拒否であり、父の不在が確定したときしかたなく母性を受け入れるのが、あのミルクを飲むシーンのもう一つの意味ではないか?。
ユスフ三部作⑬:徴兵検査でユスフが不在のとき母はミルクの配達を怠る。「ミルク=母性」の放棄であり、母性より駅長との関係での女を優先した。息子不在時に再婚話を進めている。息子ために用意した御馳走には、単に徴兵または徴兵免除の祝いという以上に息子への後ろめたさがあるのではないか?。
ユスフ三部作⑭:三部作を見る限りカプランオール監督の映画作法は、現実、夢、空想等々の間に明確な区別をつけることをしない。はっきりと現実らしい、あるいは夢・空想らしいというシーンはあっても、どちらとも言えないものもある。こういう映画作りでは両者を融合したシーンも可能なわけだ。→
ユスフ三部作⑮:→だいたいが劇映画は、多くはいかに作り物を本当らしく見せるかだけれど、所詮はすべてウソ(作り物)なのである。ただ唯一真実があるとすれば、カメラの前で役者が演じていることだ。だから劇映画はすべて、その映画を作っていることを記録したドキュメンタリー映画なのだ。(←これを言ったのは誰だっけ?。ジャン・ユスターシュだっけ?。)
ユスフ三部作⑯:逆さ吊りにした女性から蛇を吐き出させるショッキングなシーンで『ミルク』は始まる。下で炊かれているのは呪文を書いた紙片を浮かべたミルク。「ミルク=母性」と「蛇=女の性」の対立であり、ユスフの願望が母の「女」に対する「母性」の回復(勝利)にあることが暗示される。→
ユスフ三部作⑰:→母ゼーラは家に蛇がいると恐れる。駅長との関係での女を母性に優先することの不安であり、このシーンをユスフの空想と解釈するなら母がそういう不安を持っていることへの希望だ。別のシーンでは見つけた蛇をユスフはただ閉じ込める。彼は母の「女」性に向き合おうとしない。
2013.02.05
ラッコのチャーリー
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