2013/02/28

『怪談 新耳袋 異形』





監督:井口昇
撮影:中村夏葉
出演:スマイレージ(和田彩花、福田花音、竹内朱莉、勝田里奈、田村芽実、中西香菜)、小山田サユリ、井上翔、戸田昌宏、和泉宗兵、いしのようこ
2012年 日本 92分カラー
2013.02.28 桜坂劇場ホールCにて
映画度:★/5*

今月(2月)は見る映画がなくなってしまい、1週間以上も映画を見ていなくて「映画館禁断症」に。で、パスするつもりだった井口昇の『デッド寿司』を見た。予想に反してなかなかイケたので同監督の『怪談 新耳袋 異形』を見にいった。結果「失敗×6174の297乗」ってところ。ちなみにこの6174とか297とかいった数字は選んだ数字で、解る人には何の数か解るはず(映画にはまったく無関係)。

この映画、4編からなるオムニバスで、まあ「怖くないか?」と問われればなかなか「怖かった」ですよ。でもただそれだけ。だからさっき「失敗×6174の297乗」と書いたのをちょっとトーンダウンして「失敗×495」くらいにしておきましょうか。

第一話「おさよ」:アイドルが写真撮影のロケで泊まった山中の旅館で深夜幽霊に襲われるお話。

第二話「赤い人」:姉妹が越してきたマンションで姉が赤い人(ゾンビの一種?)に襲われ、そこに妹とその男友だちがやってくるが…。

第三話「部屋替え」:親戚から譲り受けた古い三面鏡に写る謎の老女…。

第四話「和人形」:仲の良い六人組の少女たちだったが、その一人が別の一人をおどそうと安易に使った和人形が…。


どの話も怖いといえば怖いのだけれど、ただそれだけ。92分で四編だから一編20分前後だけれど、それぞれがやはり一本の短編映画になっていて欲しい。第三話にはかすかに夫婦と親子のちょっと笑える関係が描かれ、第四話では女(少女)の嫉妬が描かれてはいたが…。怪談というのはホラー映画と言ってよいのだろうが、ホラーで必要なのは主人公が恐怖体験をするのを描くだけではなく、幽霊とか怪物の身元を描くこと。


それがないなら演じる役者の演技が堪能できることだが、この小娘たちの演技は惨憺たるもの。この娘たちがいかに生きる人として普段感動というものをしていないかが見えて空恐ろしくもある。心からの真の感動ではなく、これは面白いものだから面白い、これは怖いものだから怖いといって具合にしか人生を生きていないのではないだろうか。映画の演技というのは「実際」と同じではないけれど、この娘たちは実際にこうした幽霊に襲われても、こんな程度の恐怖の顔しかできないのだろうか?。


この作品はスマイレージとかいうボクの知らないアイドルグループをフィーチャーした「アイドル映画」でもあるわけだけれど、SPEEDの『アンドロメディア』ははるかに映画していた。SPEEDは社会現象にもなるほどの存在であったわけだけれど、やはりあの4人はアイドルと言われる中でも群を抜いた、ただ者ではない4人だったのだろう。そうそう蛇足だけれど、女子高生の太ももが好きな方にはオススメします。




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.02.28   
ラッコのチャーリー


2013/02/27

映画度



映画らしい映画を求めて

(1)


小説なら小説、演劇なら演劇、オペラならオペラ、それぞれのジャンルにはそれぞれの固有の特徴があるはずだ。最近というよりもうかなり以前から「近頃は映画らしい映画がない」とか「最近の映画はテレビドラマであって映画とはよべない」などと言われるのを耳や目にする。そして自分も同じような思いを持っている。ではこの似て非なるとされる映画とテレビドラマの違いとは何なのだろう。

Krzysztof Kieślowski (1941-1996)

映画に関する本は、中学・高校の頃はよく読んだけれど、最近はほとんど読まない。だから誰がどんなことを書いているかは知らないけれど、映画作品とテレビドラマの違いを主に論じたのにはまだ一度も出会っていない。記憶にあるのはキェシロフスキの口述自伝の中の一節ぐらいだ。それは制作費の大小からくる差で、予算の少ないテレビドラマではアップが多用されるということだった。それは例えばレストランのシーンで、主人公の顔をアップでとらえてしまえば周囲はほとんど写らないが、カメラをひいた場合には隣のテーブルで食事をする人や料理も写るので余計に費用がかかるというようなことだろう。

それに加えて、テレビ画面が映画スクリーンよりはるかに小さいのも、テレビにアップが向いている理由だろう。その意味ではスクリーンを想定して撮影された映画のフレームは、DVDなどを小さなテレビで見るには不向きかも知れない。最近はテレビで放映することを前提とし、DVD化することを前提として映画が製作されるから、ここにまず映画がテレビドラマ的になってしまった一つの原因があるかも知れない。最近もう少しカメラをひいたらいいのにな~と感じるフレームが多い(100mmのレンズで撮ってるなら75mmに、10mの距離にカメラがあるなら15mに、といった感じ)。


さていま引用したクシシュトフ・キェシロフスキ監督だけれど、彼には『デカローグ』という各編約一時間の独立した10編からなるテレビドラマ・シリーズがある。毎週テレビで放映されたときにはワルシャワの町から人影が減ったといわれる人気ドラマだ(女湯が空になるというのが日本でもありましたっけ*)。これが製作されたときポーランドは共産主義国家で、テレビも映画も国営だった。10編のシリーズを撮るのにテレビ局から提出された予算にキェシロフスキはやや不足を感じた。そこで映画を2本撮るということで映画用に予算を得て、彼はその全予算を使って60分のドラマ10編と90分の劇場用映画2本を作った。2本の映画とは『殺人に関する短いフィルム』と『愛に関する短いフィルム』で、それぞれテレビドラマ『デカローグ』の第5話と第6話の長尺劇場版だ。


映画2本用に追加された予算がどれほどだったかはわからないが、仮にそれがドラマ10本分と同額であったとしたら、キェシロフスキは当初の予算の倍の予算で10本のドラマを撮ったとも言える。2本の劇場版も作るとは言ってもセットやロケにかかる費用は同じだからだ。『デカローグ』はテレビでの放映のために作られたテレビドラマではあるけれど、今話題にしている「映画らしさ」「映画度」という意味では立派に「映画」だ。今はあまり使われなくなったけれど「テレビ映画」という言われ方も昔はあったっけ。たとえて言えば、テレビの予算だけではアップにしなければならなかったのを、映画的予算が使えたのでひいたフレームで撮ることができ、結果テレビドラマ的ではない本物の映画的映画になったということかも知れない。テレビドラマ10本用に提出された予算が10本のドラマを作るのに不足だったということは、彼が撮ろうとしたものは(予算的に)テレビドラマを超えたものだったということでもあり、つまりは彼はドラマ人ではなく映画人だったということだ。(つづく)



*註:1952年NHKのラジオドラマ『君の名は』に関するエピソード



2013.02.27   
ラッコのチャーリー

2013/02/22

『カラカラ KARAKARA』





監督:クロード・ガニオン
撮影:ミシェル・サン=マルタン
2012年日本・カナダ104分カラー
出演:ガブリエル・アルカン、工藤夕貴、富田めぐみ
2013.02.14 シネマQホール9にて
映画度:★★★/5*




大学教授の職をリタイア後、心の平穏を求め、カナダ・ケベック州のモントリオールから念願のアジアへやって来たピエール(ガブリエル・アルカン)。気功のワークショップを終え、帰国までの10日間を沖縄の島々を旅して過ごそうと考えていた彼は、那覇で道に迷っていたところを、純子(工藤夕貴)と明美(富田めぐみ)の友達ふたり組に助けられる。彼女たちと楽しいひとときを過ごしたのち、目的地の博物館で展示されていた素朴な織物に心奪われるピエール。それは、人間国宝平良敏子が織った芭蕉布だった。自分でも不思議に思うほど好奇心にかられたピエールは、芭蕉布工房へ取材の約束を取り付ける。


翌朝、ピエールが公園で気功の練習をしていると、昨日出会ったばかりの純子が現れる。流暢な英語を話す純子は、東京から移住してきた主婦で、那覇を案内するという。その時限りの縁に思えたが、その夜、ピエールのもとに再び純子が現れる。純子は夫・健一(あったゆういち)に殴られた顔を押さえながら、家出してきたと言い、ピエールの旅に同行したいと言い出す。お人好しのピエールは突然の展開に困惑しながらも、純子を放っておくわけにもいかず、しぶしぶ承諾する。

境遇も性格もまったく異なるふたりの波乱に満ちた旅が始まった。出発早々、鳴り続ける健一からの電話や、健一から逃げようとしてレンタカーを暴走させる純子に、ピエールは苛立ちを隠せない。しかしどこか憎めない魅力を持った純子との時間をいつしか楽しんでいるピエール。2人の間に奇妙な友情が芽生え始めていく…。オフィシャルサイトから)


この映画、最初はたしかにピエールの物語として始まるのだけれど、そこに闖入した純子の物語が最初のピエールの物語を浸食してしまう。もちろん純子のあり方が結果的に強引で、それに振り回されるピエールなのだから当然なのかも知れない。ではその純子の物語とは何か。それは暴力夫から離れ、純子は離婚を決意し、夫も同意するに至るというもの。この夫婦のことは電話でのやりとり、純子がピエールに話すこと、そしてほんの少しこの夫が登場する場面でわかるだけだが、これがあまりにも月並み。直接に夫婦のことは描かれないから、この月並みを月並みな話として受け入れるしかない。その夫婦不和に対する純子の葛藤は描かれているというべきかも知れないが、彼女の心情は月並み以外には伝わってこない。


では浸食されたピエールの物語は?。ラスト近くで純子はピエールのあり方、つまり周囲の人との関係の持ち方、もっと言えば相手の心情を無視したいわば無関心に怒りをぶつける。そして翌日無人島で二人が数時間を過ごしたとき、自分の生き方が間違っていたことに気付かせてくれたとピエールは純子に告白する。話自体は多いにけっこうなのだけれど、このラスト近くまでのピエールの間違った人生の空虚感は明確に演技されていない。ここまで見て初めてピエールはそういう心の隙間を持っていたから、何かを求めて旅にきたんだな~、と解釈できるだけなのだ。


そして見ている者にとっても、曖昧なピエールと強引な純子の共存だから、どちらか一人に感情移入して物語を生きることもしにくい。純子の夫婦問題の設定・描写は月並みでもかまわないから、心の空虚と、それを解決すべく沖縄にやってきたピエールという人物をもっと的確に描いて欲しかった。そしてカナダと日本ないし沖縄の合作映画であるとしても、沖縄の文化の色々を、単なる観光的紹介ではなく、もっと上手く物語の中にとけ込ませて欲しかった。




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.02.22   
ラッコのチャーリー


『シェフ!』

三ツ星レストランの舞台裏へようこそ



原題:Comme un chef
監督:ダニエル・コーエン
撮影:ロベール・フレス
2012年フランス・スペイン 85分カラー
出演:ジャン・レノ、ミカエル・ユーン、ラファエル・アゴゲ、サロメ・ステヴナン、ジュリアン・ボワッスリエ
2013.02.19 シネマQ ホール7にて
映画度:★★★★★/5*

この映画、映画度(説明はまだだけれど)を★★★★★の満点とした。やや甘い採点ではあるのだけれど、60年代、70年代ぐらいの伝統的フランス的コメディーそのものだったからだ。だから映画的に懐かしい。思い出すのは例えばフランスの喜劇俳優ルイ・ド・フュネス主演の«Le grand restaurant»(日本で劇場なりビデオ等で公開されているかどうか不明だが、「大レストラン」とでも訳せばよいか?)。この映画はパリのレストランを舞台とした作品だけれど、シトローエンのDS(車)でセーヌ川に落ちてしまい、でもワイパー動かしながらプカプカと川に浮かんで進んでいくといったあり得ないギャグ(?)が当たり前のごとく使われていて、ある意味これぞ映画というものだ(1966年作品)。

Le Grand restaurant (1966)

もっと最近の映画、と言ってもかなり古いが«Les ripoux»『フレンチ・コップス』(1984)とか、«Le dîner de cons»『奇人たちの晩餐会』(1998)も大きな意味では同じ系列のコメディーかも知れない。今挙げた3本の作品はこの『シェフ!』と比較するとかなり喜劇色は強いけれど、基本似たものを感じる。この『シェフ!』、製作の時期が違うから昔の映画と同じではないけれど、レストランのメニューとか食材とかをイメージに使ったシャレたタイトルロールで始まる。こういうタイトルロールは最近、あるようで良いのはあまりない。その画面を見ていたら60年代、70年代の娯楽作品を思い出した。そう、なんとなく懐かしい。そして映画の本編が始まる。


子供の頃から料理、あるいは料理のレシピが好きで、それを再現する能力はぴか一のジャッキー・ボノ。知識と能力のあるオタクだけれど、それゆえに料理に対して妥協を許すことができない。カフェや安食堂のコックに就職できても、うるさいことばかり言うのですぐにクビになってしまう。長続きする仕事がないから家計は火の車。そんなジャッキーが一緒に暮らすベアトリスが妊娠する。そんなわけでジャッキーはベアトリスの見つけてきたペンキ塗りの仕事をしばらくすることにする。


ジャッキーとベアトリスの、結婚はしていないけれど家庭を持っているようなフランス的関係について以下にちょっと長々と余談として書きたいので、関心のない方は飛ばして下さい。

⇩----------(ここから余談)----------⇩

フランスでも昔は「恋人⇒結婚⇒同居⇒出産」というのが順等というか、当たり前な男女関係ならびに家庭事情だった。それは今でももちろん存在するけれど、「恋人⇒同居⇒結婚」とか、「恋人⇒同居⇒妊娠⇒出産⇒結婚」、あるいは「恋人⇒同居⇒出産⇒そのまま結婚せずに家庭生活」なんてスタイルが珍しくないようになってきた。誤解のないように言っておくと二番目の「恋人⇒同居⇒妊娠⇒出産⇒結婚」というパターンにしても、「妊娠⇒結婚」の流れは日本で言うところの「出来ちゃった婚」というわけではなく、出産から結婚まで3年とか5年(それ以上)の間をおくことだってある。もちろんその前にカップル破綻というのもありだ。

日本ではどちらかというと若い女子に結婚願望が強いようだけれど、上に書いた色々なパターンの流れにおいてフランスでは正式な結婚に躊躇するのは女性の方が多いらしい。むかし(自分が子供の頃だから大昔!)日本で芸能人同士だったかが「契約結婚」をするとかなんとかというのを聞いたことがある。子供だからもちろん何のことだか良くはわからなかった。でも、男女がくっついて家庭を作り子供を育てるのは、社会的あるいは生物的「一つの事象」だとしても、結婚と言うのは元来が「契約」であるはずだ。

契約という概念はもともと日本には薄いけれど、フランスでは結婚というのはまさしく一つの契約であり、夫婦別財産制にするとかしないとか、家計の負担率は何対何にするとか、細部を決めて契約書にサインをする。もちろんこうした細部を特に定めなければデフォルトの結婚形式となる。日本では法の決めたこのデフォルトの結婚形式しかない。

フランスは個人主義の国だから、各自が自分をいちばん大切にする。ならば結婚という制度に縛られることは、幸せのための自分の自由を制限するものになりかねない。結婚してみたら夫が豹変し、酒乱の暴力夫になったとしても、離婚するのは容易ではないし多大なエネルギーを使う。でも正式に結婚していなければただ出て行くだけでことは済む(男がストーカーとしてつきまとうかどうかは別だけれど、妻でもなんでもないから男になんら権利はない)。もちろんこれには女性の経済的自立が必要だけれど。

そして制度的にも、もともとは同性のカップルに夫婦的な権利を法的に与えるのが制定の主目的だったけれど、PACS法というのが20世紀末に出来た。結婚はしないけれど互いにPACS契約を結べば法的にほとんど結婚と同じ権利が与えられる(日本ではゴクミとアレジが有名か)。ただし上の酒乱の夫の例ではないけれど、契約の解消は結婚と違い片方の意思でできるから、男が同意しなくても女は出ていける。

フランスはもともとが日本人が普通に考える以上に男性社会だったから、女性にとって結婚することは夫の所有下に身を置くというイメージ(あるいは実態)もあるのだろう。だからこそ正式の結婚への躊躇は女性の方に多いのかも知れない。またPACSなら配偶者の親族との関係もよりゆるいから気楽だ。そして結婚より親が反対しにくいから、親の反対があっても好きな相手と暮らして家庭を作ることもやりやすい。

若気の至りで長続きしない相手と結婚してしまい、3年、5年で離婚していわゆるバツイチとなる(親族とか周囲の人々も巻き込む)というのより良いのではないだろうか。まあ頭の固い日本の老人国会議員には理解すら出来ないだろうけれど(特に同性カップルのことなんて)。でもこういう制度を制定し、シングルマザー・シングルファザーに対する制度や施設や経済的補助策を講じ、それを社会が容認するようになれば、女を「出産機械」とか言って顰蹙を買っているよりも、合計特殊出生率は向上するのではないだろうか。高齢化社会の問題の改善に必要なのは、結婚という制度ではなくって、合計特殊出生率(一人の女性が一生の間に生む子供の数)を増やすことでしょうに!。

⇧----------(ここまで余談)----------⇧

映画のことから脱線して余談の余談になってしまったけれど、映画『シェフ!』に話を戻せば、ジャッキーとベアトリスは愛し合っていて、ベアトリスは妊娠もしている。でもベアトリスは、もしジャッキーをパートナー(あるいは夫)として一緒に暮らしていけると思わなければ、即関係解消で出て行ってしまう。こういう関係っていうのは、結婚をしてしまって互いに夫・妻という座に安住するカップル生活よりも、日々二人の関係を良いものとしようという意志が働くからより建設的だ。ベアトリスは産休に入り、子供が出来る。だから家計をとりあえず安定させたい。厨房の仕事をさせては長続きしないからベアトリスは異業種の仕事をジャッキーにみつけ、ジャッキーも不本意だろうペンキ塗りの仕事を始めることになる。


ペンキ塗りというのはビル、と言っても伝統的パリの建物だけれど、その何百枚もの窓枠のペンキを塗り直すことだった。ところがどっこい、その建物に入っている(高級)老人施設の厨房の窓枠も塗ることに。ジャッキーは中の様子を覗いて、素材の間違った調理法を目撃する。当然黙って見てはいられない。窓をノックして中に入れてもらい、調理を始めてしまう。やがて3人のコックとも仲良くなり、また彼の料理も入所者たちに気に入られる。それがきっかけとなり、偶然に偶然が重なってパリの三ツ星高級レストラン、カルゴ・ラガルドの料理長アレクサンドルに補佐役として雇われる。


アレクサンドルは有名・有能な料理人で何年もレストランの三ツ星を維持してきた。彼の料理は伝統的なフランス料理で革新性がない。でも昨今は液体窒素などまで使った「分子料理法」がブームだ。分子料理法というと先日見た映画に『エル・ブリの秘密 世界一予約のとれないレストラン』というのがあった(分子料理法とかエル・ブリのことが知りたい方は同映画の予告編を見ていただきたい)。レストラン・ラガルドはアレクサンドルとも仲の良い先代ポールが息子スタニスラフに経営を譲っていた。このスタニスラフは伝統料理しかできないアレクサンドルを解雇したい。そして契約に「星を失ったら解雇できる」という条項をみつける。そして近々星の認定のために秘密調査員がレストランにくること、そしてその調査員が伝統料理より分子料理を好んでいることをアレクサンドルに告げ、星を失ったら解雇すると迫る。そんな窮地にアレクサンドルが見つけたのがジャッキーだった。


ラガルドという高級レストランで、しかも尊敬する(特に過去の名レシピを)シェフ・アレクサンドルの補佐ができる。ジャッキーは研修期間は無報酬のこの仕事についてしまう。もちろんベアトリスには内緒だけれど、やがてバレてしまい、嘘をつかれることを最も許せないベアトリスは「もう終わりよ」と言ってジャッキーのもとを去ってしまう。


まあ、そんなこんなで、ハッピーエンドに向けてコメディーは続いていくわけだけれど、エル・ブリの料理長フェランはスペイン人だから分子料理をおちょくって奇妙なスペイン人分子料理調理人を登場させたり、顔の知られたアレクサンドルが分子料理の敵陣視察のためにジャッキーと2人でキモノを着てメークをして日本人夫婦に化けてレストランに行ったりと、ドタバタとしたギャグ的シーンが連続する。ややネタバレになるけれど、意地悪役だったスタニスラフが父親に厨房見習いに格下げされるラストとか、ばかばかしいと言ってしまえばその通りだけれど、これぞフランス伝統コメディーだ。そこにアレクサンドルと娘アマンディーヌの父娘関係、アレクサンドルの新しい恋の予感、そしてもちろんジャッキーとベアトリスの愛情関係、そういう人間ドラマが背景に(こちらはギャグ的ではない)置かれて描かれているのもフランス的だ。


まあそんなわけで、85分という小粒な映画。伝統的なフランス・コメディーが今も生きていることを知って、嬉しい作品だった。笑いの種類がイギリスとも、アメリカとも、日本映画とも微妙に違うのは当たり前だけれど、是非ご覧を。





*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.02.22   
ラッコのチャーリー

2013/02/20

『東京家族』Tokyo Family



Vous pouvez lire en français une critique au bas de la page.




Tokyo Kazoku
aka:Tokyo Family
監督:山田洋次
Yōji Yamada
撮影:近森眞史
出演:橋爪功、吉行和子、西村雅彦、夏川結衣、中嶋朋子、林家正蔵、妻夫木聡、蒼井優、荒川ちか
2013年松竹 146分カラー
2013.02.20 シネマQ ホール4にて(ポイントによる無料鑑賞)
映画度:前半が★★/5、後半は★★★★/5*


80歳を超えた山田洋次監督の新作『東京家族』を見てきた。山田監督の映画は特に見たいとは思わない自分だが、小津安二郎の名作『東京物語』のリメイクとあってはとりあえず見ておかなくてはという理由で、スターシアターズのポイントも貯まっていたので無料で鑑賞してきた。

橋爪功 ← 笠智衆、吉行和子 ← 東山千栄子
(広島県の故郷に住む老父母)

西村雅彦 ← 山村聡、夏川結衣 ← 三宅邦子
(東京の開業医をする長男とその妻)

中嶋朋子 ← 杉村春子、林家正蔵 ← 中村伸郎
(美容師の長女とその夫)

妻夫木聡 ← 大坂志郎
蒼井優 ← 原節子
荒川ちか ← 香川京子

時代設定は21世紀の今日になっているが、人物設定は老夫婦、長男夫妻、長女夫妻までは小津の原作とほとんど変わらない。大阪に住む鉄道員の大坂志郎が定職にはつかずフリーター(と言っても舞台美術の仕事をしたいらしい)で東京住まいの妻夫木聡に変わり、戦死した長男の未亡人の原節子が妻夫木聡の恋人(婚約者)になり、故郷で老父母と暮らす末娘の香川京子が老夫婦の隣家の女子中学生の荒川ちかに変わっている。小津の『東京物語』は世界の古典・名作なのでストーリーはここでは割愛する。よく憶えていない方はWikipediaなどを参照していただきたい。


このリメイク映画は146分と小津の原作136分よりもまだ長いのだけれど、上映が始まってちょっとイヤな予感。この映画の撮影が順撮りされたのかどうかは知らないが、なんとも演技もセリフもすべてがぎこちない。リアリティーがない。老齢になって山田監督もボケてしまったかとまで危惧した。演技もシーンも監督が制御できていない感じなのだ。でもまあだんだんに物語も動き出していく。


エンドロールは最後から2番目の画面に「小津安二郎に捧ぐ」と出て、いちばん最後に「監督:山田洋次」と出る。そう言えば山田監督には1970年頃に大阪万博を取り込んだ家族のロードムービー『家族』があった。主演は笠智衆であり、この作品も山田監督の小津への敬意があったのかも知れない。今回のリメイクでも、小津の映画と違い家の階段はしっかりと映るけれど(もっとも『東京物語』は小津の作品でも階段を写さない技法はややアバウト)、小津を思わせるローアングルのカメラも多用され、セリフも同じものの引用はあり(冒頭の「お刺身も」「いや肉だけで十分」とか)、画面構成にも引用がある。


しかしこの2作はまったくもってコンセプトが違うような気がする。リメイクはコピーではないからそれで良いのだけれど、それは新たな何かの創造を目的としている場合である。有名ミュージシアンの有名曲がトリビュートとか称してカバーされることがある。もとのロックがスラッシュメタルでカバーされる。有能なミュージシアンンによるカバーならそのカバー自体が魅力的だ。でもおうおうに原曲とあまり変わらないカバーというのもあって原曲よりはるかにつまらない。


山田洋次の『東京家族』の前半はこのような無意味なカバーでも聴いているかのごとく進んでいく。妻夫木聡の3・11ボランティアの話はまだしも、横浜の観覧車をホテルの窓から眺めながら『第三の男』のウイーン・プラターの観覧車を引き合いに出すなど安っぽい限りだ。だいたいがもし映画人としてオーソン・ウエルズに敬意を表したいなら俳優としてのウエルズではなく、監督ウエルズに敬意を表するべきだ。土産物のスノーボールでも写せば事足りる(笑!)。

ところでこの映画の宣伝コピーに「これは、あなたの物語です。」というのがあった。予告編の最後の方に出てくる。宣伝は宣伝で、広告だから必ずしも監督の意図からは離れているかも知れない。しかしこのコピーが暗示する内容がくせ者であり、またそれが『東京物語』の小津のコンセプトとは大きく異なる点ではないだろうか。思い出すのは是枝裕和の『歩いても 歩いても』。この映画も多くの観客にかなり好評だったらしい。人々は自分と似たような家族を見ることで安心をしたいのだろう。でも問題点や欠点を「そんなもの」と肯定してしまっては改善も進歩もない。戦争肯定映画と同じ効果を生むだけだ。


ちょっと面白いと思ったのは『東京家族』のIMDbの観客の採点だ。投票はまだ27票(US user 1名の採点は5点、残りのNon-US users というのはたぶん日本人票で平均点が6.4点)しかないけれどすべてが男性で、全平均が6.3点である。うち7名の30~44歳の男性票が8点と高得点。現在普通に家庭の父親を現役で務めている世代の男性がこの映画の世界に安心を求めているのかも知れない。45以上の男性票は平均点5.7。45歳以上の男性は老父の方に感情移入して納得がいかないのかも知れない。

このリメイクを見ると、見る前から感じていたことではあるけれど、小津安二郎の描くホームドラマが決して現実肯定ではないことが改めてよくわかる。日本人が家族間で持つ心的感情、情緒、そういうものを深く理解し、またそこに郷愁のようなものを感じながらも、小津にはそれに対する批判が含まれている。批判といって言い過ぎならば小津作品には、そうした日本人の家族間の感情が求めるようなことを全的に実現することが不可能であり、不可能を求めることに対する不条理が描かれている。そしてセリフの一つ一つがいかに全体の中で意味を持っていたかがわかる。


だから小津の作品はホームドラマであっても寂しいものであり、人が本来一人一人皆孤独であることを自覚し、受け入れなければならないことを語っている。日本人の人間関係のあり方では普段覆い隠されている本来的な人間の孤独を描いているのだ。日本的な人間の世界を描いているようで、小津という人の哲学はむしろ西洋的であることがわかる。そしてこのような日本人的心情は実は人間にとって普遍的なものでもあり、西洋人の中にも健在化してはないけれど存在するわけで、だからこそ欧米で小津が高く評価されるのだろう。親が子供を支配したがり、自分の理想とするような人生を歩ませようと思うことや、子供が親に対する愛情を持ちながらも、親に逆らってでも自分の生きたいように生きたいと思うことは、洋の東西を問わない。小津が評価されるのは決してそのローアングルのためではない。


このリメイクでの人物設定に変更がある点は上に書いたが、その変更でクローズアップされるべきは妻夫木聡と蒼井優のカップルだ。小津の『東京物語』の笠智衆は妻や、酒を飲んで旧知に子供たちの愚痴をこぼすことはあっても、子供に対しては文句らしきは言わないという慎みを持っていた。しかし『東京家族』では次男(妻夫木聡)を定職にもつかず、ふらふらフリーターをして安易に生きていると直接に不機嫌をぶつける。人物設定の変更はコンセプトの変更でもある。ここで山田洋次は小津安二郎から離れたと言える。


映画はここから面白くなるのだけれど、それはもっぱら蒼井優のキャラクターと演技によるものだ。蒼井優のここでの演技を見るためならこの映画をもう一度見たいとも思う。だが一方で小津の持っていた哲学的世界からは離れ、急に卑小で下世話な人間の物語になってしまう。『東京物語』は1953年公開だから1903年12月生まれの小津安二郎は撮影当時49歳。一方山田洋次は1931年9月生まれだからこの『東京家族』撮影時はたぶん81歳。山田監督が小津安二郎が好きでもかまわないが、人間の本来的孤独を描いた小津作品の持つ魅力とはかけ離れた卑小な人間ドラマをリメイクとして作ったことは残念だ。実際のところ山田監督は小津作品の本質を理解できていないのではないかとさえ感じてしまう。

最近見た別の映画の中のセリフを最後に引用したい。作家アルベール・カミュの自伝的小説遺稿の映画化である『最初の人間』からだ。息子はパリで作家として活躍し、母親はアルジェリアに一人寂しく暮らしている。久しぶりに訪れた息子に母は言う。

「お前が幸せなら、わたしにはそれだけで十分よ。」



*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係




2013.02.20   
ラッコのチャーリー



C'est un remake d'après le chef-d'œuvre Voyage à Tokyo(東京物語)de Yasujirō Ozu (quelle audace!) par Yōji Yamada, réalisateur de quatre-vinghtaine renommé pour la série de films Otoko wa tsurai yo (48 titres entre1969 et 1995). La projection commence par le même logotype du Mont Fuji de la production Shochiku, comme celles d'Ozu. Le début diffère déja de celui d'Ozu. La fille cadette Kyoko, institutrice, qui vivait avec ses parents à la province est supprimée dans ce remake (dont le rôle est un peu remplacé par la collégienne de la maison voisine), et l'histoire commence directement par les scènes à Tokyo. Ce n'est pas la locomotive à vapeur mais le Shinkansen, nous somme au XXIe siècle.

Les personnages (frère, sœur, leurs époux) sont les mêmes et la conversation aussi (le dialogue est emprunté du film original). La caméra est en quelque sorte à position basse comme Ozu. Mais le film ne file pas, ne marche pas. Ce qui m'a même donné la crainte de la gâtisme du réalisateur âgé; ni l'image, ni la scène, ni le jeu des acteurs n'est maîtrisé. Cependant, petit à petit, la narration commence à démarrer. Dans le film original la charmante actrice Setsuko Hara a joué gracieusement la belle-fille, veuve du deuxième fils mort à la guerre. Ce fils décédé n'existe pas dans ce remake et le fils cadet, cheminot, qui vivait à Osaka, grande ville qui se situe entre la capitale Tokyo et leur province, est remplacé par le deuxième fils Shoji habitant aussi à Tokyo, dont la fiancéé Noriko (jouée par Yû Aoi) est le rôle qui succède celui de Setsuko Hara. Visitant avec sa femme, les enfants à Tokyo, le père n'est pas tout à fait content de leur condition de vie (travail, logement etc...). À ses yeux les enfants n'ont pas réalisé son attente idéale. Mais quand même le père avait la juste discrétion de ne pas le leur avouer.

Par contre, dans ce remake le père reproche surtout fortement Shoji sans emploi fixe. Ici l'histoire tombe d'un coup à une simple comédie familiale très banale. Ce qui nous attire un film d'Ozu, c'est quelque chose de plus philosophique; la condition humaine de la solitude par exemple. La conversation et l'image sont très bien calculées, avec sa diction de la langue japonaise plus ou moins peu naturelle. Contrairement à l'apparence d'une description banale d'une famille traditionnelle à la japonaise, son point de vue était plus occidental, dire individualisme, seulement avec une dose de nostalgie. Ozu savait bien la solitude originaire de nous, les mortels. C'était là la charme d'Ozu.

La conversation monotone et lente avec sa diction un peu irréelle (peut-être pas pour les spectateurs qui ne comprennent pas japonais mais on a, nous les Japonais, l'impression de cet aspect factice de la langage). L'infraction exprès de la règle des 180 degrés pour le champs-contrechamp. L'effacement de l'escalier dans la maison à un étage (pas très stricte dans Voyage à Tokyo) comme pour situer les deux espaces du rez-de-chaussée et de la première étage aux univers d'une autre dimension; on a pour ainsi dire une impression que les deux univers ne se communiquent pas. Et il y a aussi sa fameuse position basse de la caméra. Avec tout cela, disons sa technique, et sous une apparence d'une simple comédie familiale, Ozu poursuit et exprime la recherche de l'existence humaine fondamentale.

Tous à la fin du film remake, Yōji Yamada a mentionné Dédié à Yasujirō Ozu. Toutefois ce réalisateur de la série Otoko wa tsurai yo n'appréciait pas jadis les œuvres d'Ozu; étant trop banale et toujours les histoires semblables, selon lui. Il ne pouvait peut-être pas comprendre ce que Ozu voulait rechercher philosophiquement. Et puisqu'il a fait cette adaptation en trop banale comédie, quoique la dédicace, il ne le comprend toujours pas. 

(écrit par racquo)

2013/02/18

『エンド・オブ・ザ・ワールド』





原題:Seeking a Friend for the End of the World
監督:ローリーン・スカファリア
撮影:ティム・オアー
2012年アメリカ 101分カラー
出演:キーラ・ナイトレイ、スティーブ・カレル、マーティン・シーン
2013.02.17 桜坂劇場ホールCにて
映画度:★★★★/5*


小惑星衝突まで3週間。人類は滅亡する。妻と別れたばかりの五十男ドッジ(スティーブ・カレル)は偶然同じフラットに住む28歳のペニー(キーラ・ナイトレイ)と出会う。ペニーは家族のいるイギリスに帰るための最後の飛行機に乗り遅れたことを嘆き、ドッジは3ヶ月遅れて届いたかつての恋人からの「最愛の人」という手紙を目にして彼女に会いにいこうとする。妻子を捨てて失踪した父親とは何十年間も会ってはいないドッジだったが、父が小型機を所有することから、その飛行機でイギリスへ送ることを彼女に提案し、折しも二人の住むアパートメントが暴徒に襲撃されたことから二人のロードームービーが始まる。



やがてこの二人は愛し合うようになるのだけれど、自由奔放に生きるペニーは魅力的でドッジが惚れるのはよくわかるが、真面目・堅実ではあるけれど風采のあがらない五十男のドッジをペニーが好きになるのは、正直リアリティーが薄い。ただここはペニーの言う「あなたっていい人」と「正反対の人同士が惹かれ合うもの」というセリフに根拠を感じよう。しかしそれでもこの物語、とにもかくにも動きだす。


(以下小さいフォントの部分は少々ネタバレ)

なるほど3週間後に小惑星は接近し…、という終末映画ではあるけれど、最後の最後、人類の滅亡が映像として描かれるわけではなく、その直前で映画は終わってしまう。ようするには世界終末というマクガフィンを使ってのスクリューボールコメディー、ラブコメロードムービーなのだ。それにしてもキーラ・ナイトレイの、まずは劇中でのそのキャラ、そして彼女の演技、まったくもって魅力的。特に二人がドッジの昔の恋人の無人の実家で過ごす夕食のシーン以後の彼女がいい。自分の通う桜坂劇場では今週金曜日(22日)までは16時からで時間が取りにくいけれど、来週25日(月)~3月1日(金)は18:10からなので、もう一度か二度キーラを鑑賞に行きたいと思っている。



*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.02.18   
ラッコのチャーリー


2013/02/17

午前十時の映画祭




「午前十時の映画祭 何度見てもすごい50本」という企画があって、これまで全国で第一回、第二回、第三回と3年間にわたって102本の名作洋画がフィルムで上映された。沖縄では第二回・赤の50本と第三回・青の50本の計100本が那覇・久茂地のシネマパレットで2年にわたって週替わりで上映され、家から歩いて10分という好条件もあり、7~80本の作品を観た。自分は2月13日に観た『キャリー』が最後となったが、先日2月15日でこの企画は終了し寂しい思いでいた。


この企画、累計興行収入は15億円を突破し、昨年12月半ば時点での累計観客動員数は172万人。企画終了を惜しむ観客からの要望もあって、今回「新・午前十時の映画祭 デジタルで甦る永遠の名作」として継続されることになった。ただし今回はフィルム映写機の撤去が進む映画館事情があり、デジタル・プロジェクターでの上映となる。また週替わりではなく各作品2週間ずつの上映で1年で25本。

上映される作品はこれまで3回の映画祭で上映された12本に新たに13本が加わった。沖縄にとっては第一回でのみ上映された『2001年宇宙の旅』を含めた14本が新しい。『カッコーの巣の上で』『サイコ』『ジャッカルの日』『フォレスト・ガンプ/一期一会』『プリティ・ウーマン』『冒険者たち』『慕情』『炎のランナー』『メリー・ポピンズ』『燃えよドラゴン』『リオ・ブラボー』『レイダース/失われたアーク «聖櫃»』『ロッキー』。


この企画自体は嬉しいけれど、一方では三軒茶屋中央劇場銀座シネパトスなどが閉館していくのは寂しい限りだ。こういう企画ではなく、小規模の多くの単館や名画座でこうした作品が上映され、日常の生活に組み込まれた形で過去の名作を楽しめるのが望ましい環境だと思う。普段の生活にとけ込んだ形での「映画館で映画を見る」ということの復権を願うのはノスタルジーでしかないのだろうか?。



2013.02.17   
ラッコのチャーリー

2013/02/16

目黒シネマ



Wikipediaの日本語版を見ると、現在ミニシアター(単館系)といわれる映画館が全国に約100館、そして名画座が約40館。沖縄に越してきてもう約9年になるので東京や関西、その他日本の地区の現在の映画館事情はよく知らない。歴史ある名画座が閉館するニュースに接し、東京のなどは自分もかつて行ったことのある映画館だったりして、時代の変化を寂しく感じている。


そんな中で偶然にも名画座と言われる映画館がまだ生存していることを知った。ちなみに偶然と言うのは、「フジフィルムが映画フィルム生産から撤退→大蔵映画はどうなる→目黒シネマ」というネット・サーフィンの結果だ。

沖縄那覇のミニシアターである桜坂劇場と、國場組の運営するスターシアターズというシネコンのシネマQとシネマパレットに通う日々の中で、たまに関東に数日のスケジュールで行ったときには映画館にも可能な限り行くけれど、沖縄で上映予定のない作品を観ることが第一目的になってしまう。

でもそんな中で一度行ってみたいと思っているのは名古屋のシネマスコーレ。でも若松孝二氏は昨年亡くなってしまった。そして今回みつけたこの名画座の目黒シネマ。2本立てで入れ替え制なしという昔ながらのスタイルの映画館だ。本当は暇と金が許せば、シネコンでない全国の映画館を旅して回りたい。もっとも映画館というのは普段の生活の中に組み込まれるべきもので、観光旅行の名所ではないのだけれど…。



2013.02.16   
ラッコのチャーリー

2013/02/14

映画と外国語と字幕




自分はある程度フランス語はわかるけれど、ペラペラってわけではない。パリで映画を観るとき、あるいは日本でも輸入PAL盤DVDなどで字幕なしでフランス語フランス映画を観るとき、言葉はほぼ全部わかることもあるが、おおむね6割から9割程度だ。

少し前のこと、あるフランス映画を映画館に見に行った。上映が始まりタイトル等が出終わるとすぐに独白が始まるのだけれど字幕が出ない。会話の部分に入っても字幕は出ず、4~5分が経過して上映は止まった。「たいへん失礼いたしました。もう一度最初から上映させていただきます。」のアナウンス。そして最初の(やや長めの)タイトルロールから映写し直し。今度は字幕がちゃんと出た。フィルム上映ならフィルム自体に字幕は入っているからこういう事故は起きないが、デジタル上映だとプロジェクターの設定を誤ればこういう出来事もありだ。

その最初の字幕なしの映写、自分はそのフランス語がほぼ聞き取れ、意味もわかった。ところが2度目の字幕入りの上映では、どうしても画面下の日本語に目が行ってしまう。周囲がフランス語ばかりのフランス旅行中とかではないし、それにもともとやはりフランス語より日本語の方がはるかに得意だから。そうするとフランス語は聞こえていても、あまり聴かなくなってしまう。さっき字幕が出なかったときの方が幸せに感じた。

正方形か円形のテーブルに4人で座っていたときに実際に経験した言語の干渉と非干渉。上から俯瞰で見てA、B、C、Dの4人が時計の12時、3時、6時、9時の位置に座っていた。4人が4人全員で一つの会話をしているときには何の問題もない。あるいはAとB、CとDのそれぞれ90度隣りに座った2人ずつが別の会話をするのもほとんど問題はない。ところがAとC、BとDの対面した2人ずつが別の会話をすると、他の2人の会話が耳に入って気持ちよく自分の相手と会話ができない。関係ない2人の会話が耳に入ってきてしまうからだ。隣の場合はA⇔B、C⇔Dの2回線の会話は交差しないけれど、対面の場合はA⇔C、B⇔Dの2回線の会話が交差しているかららしい。

ところが同じ対面の2つの会話でも、AとCである自分は相手とフランス語で話し、BとDの2人は日本語で話していると不都合はない。BとDの日本語の会話は耳に入ってこない。Aとフランス語で会話をしているCである自分の言語中枢(専門的に何と呼んでよいのかは知らないけれど)はたぶんフランス語モードになっていて、だから日本語は邪魔にならない。でも自分もAと日本語で話しているときには、ボクの言語中枢は日本語モードになっているので、聞きたくないBとDの会話の日本語も入ってきてしまう。

日本語字幕入りのフランス語映画を観る場合もこれと基本的に同じなのだろう。だいたい視覚は映画の画面を見ることに集中しているから、当然字幕も目に入ってしまう。すると言語中枢は日本語モードになってしまい、フランス語は聞こえていても、かなり努力して意識しないとフランス語はなかなか十分に脳に届いてくれない。今はDVDになって字幕あり・字幕なしを選択できるが、以前のビデオはそうはいかなかった。だからどうしても原語のみで鑑賞したいときは、画面の一部も欠けてしまうが、テレビ画面の下部に紙を貼って字幕が見えないようにしていた。


そして昨日桜坂劇場に観にいったのは『最初の人間』。映画が始まって少しして、フランス語のセリフがいたって簡単なフランス語ばかりであることに気づいた。語彙が難しかったりすれば理解度が低くなるから、どうしてもいつの間にか日本語字幕に頼ってしまう。でもこれならと思い、字幕をいつの間にか読んでいるということのないように音声のフランス語に集中した。ただこの映画の場合はアラビア語も出てくるので、そこは日本語字幕を見なければならないのがちょっとやっかいではあったが。

もちろん日本映画を観るときは当然だけれど、フランス映画を字幕なしで観ていると実に画面(映像)を良く見ている。さっきの上映ミスのときも、一度目字幕なしのときにじっくり見ていた映像を、字幕があるといかに不十分にしか見ていないことがわかった。だから一度目の方が幸せだったと書いたのだ。芝居的な映画というのもあり、それはそれで名作、傑作、好きな作品はあるけれど、やはり映画の映画たるゆえんの一つは映像表現だろう。例えばシリアスな場面で役者が良い表情表現をしていることがある。しかしストーリーから落ちないないようにときゅうきゅうとして字幕を見すぎていると、その名演技の大部分は見逃してしまう。

だから、最近は行っていないけれど、フランスに旅行してパリでフランス映画を観るのは好きだ。パリに行くと一日に3本くらい映画館をはしごしてしまう。もちろん日本では劇場でもDVDでも未公開の作品を観るためでもあるが、言葉は7割しかわからなくても日本で字幕入りで100%(と言っても限られた字数の字幕の範囲)言葉をわかって観るより「映画」を楽しめるからだ。映画の画面は連続的に動いているけれど、字幕は何も無い無垢の画面の下に突然現れ、突然消えたり次のに変わる。字幕は見ないように努力していても、連続的なスムースな動きの画面に突然の変化(つまりは字幕の唐突な出現)があると、どうしても目を引かれてしまうのがやっかいなのだ。


自分はフランス映画でもないのにわざわざフランス盤DVDを買うことがある。その理由は日本盤がないからの場合もあるし、フランス盤の方が日本盤をよりはるかに安いからだ。ベルイマンとかハネケとかの作品の場合、アマゾン・フランスでは新品がたった3ユーロ(円安傾向の今日のレートでも四百円以下)程度のものも多い。高い送料(と言っても十数ユーロ)を加えても日本盤を4千円、6千円出して買うよりも安価だ。日本で廃盤のDVDなど、たとえばベルイマンの『夜の儀式』が欲しいとしたら、日本のアマゾン・マーケットプレイスに出ている中古盤は5万8千円。アマゾン・フランスなら『リハーサルの後で』と『夜の儀式』のカップリング盤の新品が12.90ユーロ。送料11.50ユーロを加えて24.40ユーロで、1ユーロ126円で計算して3,074円。日本の中古盤58,340円(送料込み)の約19分の1だ。ちなみに『リハーサルの後で』も合わせて日本の中古盤を買ったら、65,835円になってしまう。


少し脱線して日本市場で(ある種の映画の)DVDがいかに高いかを書いてしまったけれど、そうして買った海外盤DVDを観て気付いた字幕に関するもう一つの点がある。それは言語の背後にある文化の問題だ。日本とイギリスでは、同じ島国ということでの共通する文化があり、それは大陸国フランスにはあまり見られない、といった細部の個別の共通・異質の要素がないわけではない。しかし全体として見れば、フランス、イタリア、イギリス、ドイツ、ポーランド等々…のヨーロッパ文化は(より)似通っていて、極東の日本文化と比べると異質だ。なので例えばスウェーデンのイングマール・ベルイマンの映画を観るとき、自分にはスウェーデン語はほとんどわからないから字幕に頼るわけだけれど、どうもフランス語字幕で観ている方が日本語字幕で観るより、よりしっくり来ると言うか、違和感が少ない。

このことは実は非常に重要で、最初の方に書いた日本語字幕を読んでしまうことの弊害、あるいはそれを言語中枢のモードとして解釈したことを超えた意味があることに気付くことになる。ただ単に言葉、言語としての差だけではなく、日本語字幕を読むことは、そのとき日本語の背後にある日本文化に精神が縛られた状態でフランス映画なりを観ていることになる。だから上に書いた日本語字幕を読んでいるとフランス語が耳に入りにくいというのもこれと関係しているのかも知れない。たかが映画。されど映画。単に娯楽として楽しめばよいのかも知れないが、こんなこともついつい考えてしまう。





2013.02.14   
ラッコのチャーリー