2014/11/12

外国固有名のカタカナ表記について


  (映画を中心に)

Ce texte à pour but de critiquer la tendance récente de transcription par les katakanas des noms propres étrangers en japonais. Alors, il n'y a pas de texte en français.

レフ・ヴァウェンサを描いたアンジェイ・ワイダ監督の映画 "Wałęsa. Człowiek z nadziei" は『ワレサ 連帯の男』という邦題で公開された。レフ・ワレサの名は80年代にポーランドの民主化運動の指導者として当時のニュースで連日報道された。その後この人レフ・ワレサはノーベル平和賞を受賞し、またポーランドの大統領にまでなった。多くの日本人、特に現在50歳代以上の人にとって「ワレサ」というのはなにがしかの記憶に残っている名前だ。だからこの映画の配給者が最近の原発音に忠実を旨とするヴァウェンサではなくワレサを用いたのは正解だと思う。ヴァウェンサでははっきり言って、正直に言って、ピンとこない。しかるに、たとえば Wikipedia 日本語版を見ると、ページタイトルは「レフ・ヴァウェンサ」となっていて、「ワレサ」という表記はポーランド語アルファベットに対する誤認識から生じた不正確なものと断じている。しかし「日本ではワレサと呼ぶ」でどこが悪いのだろうか?。日産自動車は輸出ブランドとして Nissan ではなく Datsun を使っていたが、フランスではこれを「ダツン」と読んでいた。あえてヴァウェンサという "より原発音に忠実にしようという" 動きには、学術的であるよりも、何か小賢しいしたり顔が見えてしようがない。

このような問題が生じる原因は、もちろん日本語、あるいはカタカナ表記という、元の言語のアルファベットなり、漢字なり、ハングル文字なり、アラビアやヘブライ文字等とはまったく異なっている表音文字(カタカナ)を使わなければならないことにある。『ふたりのベロニカ』や三部作『トリコロール/青の愛・白の愛・赤の愛』の映画監督を我々はクシシュトフ・キェシロフスキの名で知っている。ポーランド語ではKrzysztof Kieślowskiと記す。ポーランド語には詳しくないが、きっとこのカタカナ表記が原発音に忠実なのだろう。しかし例えばフランスでは「s」の上に「´」をつけてKrzysztof Kieślowskiと記すにせよ、フランス語にはそんな「´」のついた「s」は存在しないからKrzysztof Kieslowskiと記すにせよ、ごく当たり前に「クリストフ・キエスロウスキ」とフランス語読みにする。この監督の出身校である有名な映画大学の所在地、ポーランドの第2の都市であるウッチ(Łódź)も、フランスではŁódźと表記するにせよLodzと表記するにせよ普通「ロズ」なり「ローズ」と発音している。これは中華人民共和国の首都を中国語でも日本語でも「北京」と漢字表記し、中国では中国語普通話で「ベィジーン」と発音するのに日本では「ペキン」と読んでいる関係に似ているかも知れない。

そもそもフランス語や英語には原音や原表記とは離れた独自の表記や発音を使ってきた伝統がある。フランスでは、ネーデルランドの神学者・哲学者 Erasmus エラスムス(ラテン語)のことは Érasme と書いてエラスム(ないしエラースム)と呼び、古代ギリシアの Σωκράτης Ὅμηρος は日本ではソクラテスやホメロス、最近ではソークラテースやホメーロスだが、フランスでは Socrate や Homère と書き、発音はソクラットやオメール。後者の著作は日本ではイーリアスやオデュッセイアだが、フランスでは Iliade や Odyssée と書き、発音はイリヤッドやオディセで、原ギリシャ語発音からはほど遠い。もちろんこうした例はもう何百年も前からエラスムスやホメロスがフランスの文化の一部を構成するほどに重要なものだったからなのだけれど、だから現在も原ギリシア語に近づけるなどということは話題にならない。


岩波ホールのエキプ・ド・シネマにはその名も『EQUIPE DE CINEMA』という映画プログラムを兼ねた会報がある。その第7号は1975年7月の発行で、イングマール・ベルイマンの3作品(魔術師、夜の儀式、冬の光)を上映したときのものだ。編集後記に Ingmar Bergman のカタカナ表記のことが記されている。「ベルイマンという氏名表記をベルィマンと改めた。スウェーデン大使館の、たっての要請によるものである。Bergman の g は、英語の y に相当するので、本国のスウェーデンではベリーマンと発音されるそうだ。日本ではベルイマンと書く習慣が根強いので、苦肉の策としての字を小さくと記すことで、正式な発音に近づけることを考えた訳である。」とあり、この号の中ではすべてイングマール・ベルィマンとなっている。岩波ホールで次にベルイマンの作品が上映されたのは1981年で、『EQUIPE DE CINEMA』第44号(1981年3月発行、ある結婚の風景)、第48号(1981年10月発行、秋のソナタ)では小さい「ィ」を使わない従来のベルイマンに戻っている。そしてその岩波ホールは本年(2014年)4月、最初に書いたように「ヴァウェンサ」ではなく「ワレサ」を用いた。

そもそもカタカナ表記の正確性にどれだけ意味があるのだろうか?。英語やフランス語の「L」と「R」の区別すら普通されていない。英語の lap も rap もラップであり、lip も rip もリップだし、フランス語の loi も roi もロワだ。フランスの都市名であるパリにしてもマルセイユにしても、もしフランス語を知らない普通の日本人がこのカタカナを素直に読んだとしたら、フランス人にはそれが Paris や Marseille のことだとはすぐにはわからない可能性も高い。むしろ「パイ」なり「マウセイユ」の方が通じやすいかも知れない。

なんでこのカタカナ表記のことにこだわるか。それにはそれなりに理由がある。それはこの現代が IT の時代だからだ。我々は Google 等の検索サイトを利用することが多いし、サイト内の検索機能を使うこともある。ところがこのカタカナ表記の違いによって検索結果が違ってくるのだ。下は「レフ・ヴァウェンサ」と「レフ・ワレサ」を Google で検索した場合と、Amazon で「本」を検索した場合の結果だ。

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あるいはかつては「ミッシェル」と表記され、最近は「ミシェル」と小さい「ッ」抜きでフランス語の Michel が表記されるようになった結果、Michel Butor の『モンテーニュ論』が欲しいと思って Amazon で検索すると、「ミシェル・ビュトール」著のものは品切れで入手不能だが、「ミッシェル・ビュトール」著のものならマーケットプレイスで中古が4出品あり入手が可能だ。これは版の違いで同じ書物だ。いたずらにカタカナ表記を変えるとこういう不都合が生じてくる。Amazon で DVD を監督やキャストの名前で検索するとき、 V をバビブベボとするかヴァヴィヴヴェヴォとするかで異なった結果が出ることは良くあることだ。ヴァヴィヴヴェヴォで検索するとある映画の DVD がないのだが、バビブベボで検索するとその映画の DVD がちゃんと存在したりする。DVD を旧表記の「ガブラス」で検索すると『マッド・シティ』や『背信の日々』という映画の DVD に行き着くが、新表記「ガヴラス」ではこの作品には行き当たらない。逆に旧表記による検索では『ミッシング』は表示されない。

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だからより原語の発音に近いカタカナ表記をすることは、最初にその外国人名なり外国地名を日本に紹介する人には努力して欲しいけれど、それがたとえ多少不適切であってもひとたび流通してしまったらそれを踏襲して変えないで欲しい。作曲家ベートーベンの Wikipedia のページには「ドイツ語ではベートホーフェンに近い」と解説されているがページ名は妥当に「ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン」だ。レフ・ヴァウェンサについてもページ名は「レフ・ワレサ」で、「ポーランド語での正しい発音はレフ・ヴァウェンサである。」という解説でなぜ悪いのか?。上にも引用したように「レフ・ワレサ」の方が流通度が高い。わざわざ何がなんでもヴァウェンサにしたいという意識の底に、「ポーランド語ではワレサではなくヴァウェンサって言うんですよ~」と知らない人をバカにするようなしたり顔の小賢しさをどうしても感じる。我々の大多数にはポーランド人との会話で「ヴァウェンサ」なり「ワレサ」と言うことは皆無に近い。それにポーランド語が話せる人は「ヴァウェンサ」であることは知っている。むしろ英語やフランス語での会話で「ワレサ」なり「ヴァレサ」と言う可能性の方が高いはずだ。アメリカ人もフランス人も、たとえこのポーランドの連帯の男を知っていても、「ヴァウェンサ」では何のことやらわからないはずだ。



PS: ちなみにちょうど時期なので付記すると今年は今月の20日にその年の新酒が解禁される Beaujolais (nouveau) は、最近の流行の「ボジョレー」という発音よりも『広辞苑』第四版で採用されている「ボージョレー」ないし、従来の「ボージョレ」がフランス人の発音にいちばん近いカタカナ表記だと思われる。自分は「ボージョレ・ヌヴォー」と表記している。以下に引用した YouTube でのフランス人の発音を参考にしていただきたい。


一般的にフランス語の発音において「au」や「eau」は「o」よりも長くのび、また地名などに付いて形容詞を作る「ais」(例:Lyon→lyonnais リヨン→リヨンの、リヨン人)は男性形「ais」はのびず、女性形「aise」は「à la lyonnaise」(リヨン風、ア・ラ・リヨネーズ)のようにのびる。Beaujolais をボジョレーとすることはこの2つの原則を無視した、少なくともフランス語スピーカーの日本人にはわかりにくい表記だ。



2014.11.12
ラッコのチャーリー



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