2013/03/23

『明日の空の向こうに』Jutro będzie lepiej

Il y a une brève critique en français au bas de la page.



原題:Jutro będzie lepiej
English title: Tomorrow Will Be Better
監督・脚本:ドロタ・ケンジェジャフスカ
Réalisation et scénario: Dorota Kędzierzawska
撮影:アルトゥル・ラインハルト
Image: Arthur Reinhart
2010 Pologne/Japon couleur 118min
出演:オレグ・ルィバ、エウゲヌィ・ルィバ、アフメド・サルダロフ、スタニスワフ・ソイカ、アレクサンドラ・ビッレヴィチ、キンガ・ヴァレンキェヴィチ
Avec: Oleg Ryba, Evgeny Ryba, Akhmed Sardalov, Stanislaw Soyka, Aleksandra Billewicz, Kinga Walenkiewicz
2013.03.20 桜坂劇場ホールBにて


この映画、観ているときはそれなりに見せてくれた。それは。少年たちが越境に成功するかどうかというサスペンスがまずあり、そして3人の子役たちが、その演技が、魅力的だからだ。特に最年少6歳だかのペチャ役の子は、お茶目で愛らしいし、見ていて心地が良い。でも映画が終わったとき、そして後で映画について考えたとき、少々汚い表現を使わせていただくが、実に胸くそ悪いのだ。その辺のことを書かせていただきたい。


この映画は、ロシアの貧しい(?)地域の鉄道の駅に隠れて寝泊まりし、ちょっとした窃盗や物乞いで暮らす、孤児で浮浪児リャパ11歳、ヴァーシャ10歳、ペチャ6歳(ヴァーシャとペチャは兄弟)の物語。そんな彼らがより良い生活環境を夢みてポーランドに密入国しようというロードムービーだ。鉄道線路を伝ってポーランドを目指すという設定は、映画の内容はまったく違うものの、『スタンド・バイ・ミー』が下敷きになっていそうだ。でもこちらの設定はもっと深刻。


そんな映画だから、ロシアに於ける浮浪児の存在とか、ロシアとポーランドの社会の違いが気になる。ところがこの映画を見始めてまず戸惑ったのは時代設定はいつなのかな?という疑問。終戦直後とかまで古い話ではないらしいとはわかるけれど、いったいいつ頃なのか?。ロシア(ソ連?)の駅舎に住む孤児3人がポーランド目指して越境するという物語だから、ロシアやポーランドの関係・政治情勢がどうなっている時代で、何故に少年たちがポーランドへの越境を望んだのか、そういうことがどうしても気になってしまう。でもその何故については映画はほぼ何も語らない。やがてペットボトルが出てきたので、これが一つの時代指標となる。ペットボトルが普及し始めたのは、少なくとも日本では1980年代。そして映画後半になって携帯電話が登場。アップで写ることはないが、機種の雰囲気からほぼ現代の物語であることがわかった。


物語をエピソードを箇条書きするようなスタイルで書いてみる。貨物列車に隠れて乗って国境に近い町まで向かう3人。途中単線のすれ違いのための駅での停車中に、ヴァーシャは駅舎の窓の中に母親が赤ん坊を抱き、頬に優しくキスするのをかいま見る。親の愛を知らぬ弟を不憫に思ったのかヴァーシャはその真似をして眠ったペチャにキスをする。国境近くの町の市場でペチャが母性本能をくすぐる愛らしさを使って食べ物をもらう。田舎に住むヴァーシャの知り合いの炭焼きか何かをしている老人を訪問し、一夜の宿を得る。足手まといな幼いペチャを老人に預けていこうとするがペチャが気づき失敗。ペチャもポーランドへの旅を続けることになる。老人のところに配送に来たトラックの荷台に乗せてもらうが、町で検問。幸い3人は既に下車していた。結婚式の一行に出会い、リャパとヴァーシャは酒を飲み、ペチャは花嫁からコインをもらいきっと幸せにになれると言われる。国境の電流の流れた有刺鉄線の下をくぐるための匍匐前進の練習をする3人。道にバイクの音を聞いた3人は隠れるが、それは男女の逢瀬で若い男と女が茂みで抱き合っていた。偵察に行ったヴァーシャだけがその覗きを独占する。いよいよ深夜に越境決行。鉄線の下の土を空き缶で掘り、下にスペースを作って腹這いで国境を超えようとする。


この先はどうしてもネタバレになってしまう。と言っても越境が成功するか失敗するかということを書いてしまうということだけだが、ネタバレ部分は赤い<>にはさみ、一応薄い文字色にして目に入りにくくしておくことにする。選択・反転して読んでいただきたい。3人は越境に成功する。晴れた広い野原を嬉しそうに走り回る3人。やがて3人はポーランド側の国境近くの小さな町にやってくる。怪訝そうに出迎えるのは子供たち。ロシア語とポーランド語。言葉も通じないし、決して歓迎されている雰囲気ではない。歴史的に考えても(ポーランド分割、カティンの森、ワルシャワ蜂起、戦後の共産支配、etc…)ロシア人は決して好かれてはいないのかも知れない。警察署の場所をなんとか聞きつけた3人はそこに保護を求めて出頭する。処理に窮する警察官。最初は面倒な一件だと思うが、やがて彼ら3人に情もうつり、強制送還以外の解決策はないか電話で問い合わせる。シャワーを浴びさせられる3人。世話をするのは受付係の若い女性ララ。彼女が見ているので恥ずかしがって服を脱ごうとしない3人。3人は事情を察して逃げようとするが見つかり、車で強制送還者が一時的に入れられる収容所へ送られる。窓からその様子を見る警察官は哀しげだ。車中で涙を流す3人。しかし笑顔と笑いを取り戻し、明るく未来へ生きていこうとする姿。


まあざっとこんなお話なのだけれど、何故これにむかついたのだろう。それは決してこの物語が単純なハッピーエンドでないからではない。だいたいこうしたロシアに於ける浮浪孤児は存在するのだろうか。もちろん映画というのは作り話で、絵空事。しかしここでボクが感じるのは、いたいけな、純真な子供という存在を利用して、話のための話、映画を観る大人が喜ぶだろうものをただ作っているだけだということだ。そのどこが悪いか?。主演の3人の子役は映画に出て演じているだけで、もちろんリャパ・ヴァーシャ・ペチャという3人の登場人物は架空の存在で実在はしない。しかし存在しないながらもその彼らに決死の越境をお膳立てし、努力した末にそれを結局失敗させるのはこの3人の子供を弄んでいるだけのように感じてしまう。妙なたとえをさせていただくなら、これは一種のポルノ映画なのだ。男が見て喜ぶだろう女を描く。それは女性という存在を快楽のために弄んでいることにはならないのか?。


他の子供映画だって、例えば『スタンド・バイ・ミー』だってそうではないか?、と言われる方もいるだろう。しかしここでの少年たちは映画を観ている我々(あるいはその子供なり、子供時代なり)と等身大だ。しかしこの『明日の空の向こうに』は違う。あきらかに映画を観る観客はずっとずっと安全な場所にいる。ならば見方を変えて、この映画はロシアに存在する(あるいはもっと一般的に存在する)孤児や貧困、その対処などの問題提起になっているかというと、そうはなっていない。3人の何故や時代設定だってかなりあやふやなまま。ただただ大人が見たい「明るく未来に向かって生きていく子供」の姿を見せるだけなのだ。実際に存在するかも知れない問題はそっちのけなのである。だから子供という存在を弄んでいるだけに見えてしまい、いやな気分になってしまったのだと思う。



映画度:★★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.03.23   
ラッコのチャーリー


L' histoire de trois garçon de 11, 10 et 6 ans, orphelins et vivant dans une gare ferroviaire de quelque part en Russie qui tentent de franchir la frontière pour aller en Pologne, où ils pensent trouver une vie meilleure. Pendant la projection du film, c'était bien agréable de voir le jeu de ces trois enfants et une jolie image de Arthur Reinhart. Cependant le film fini, j'en était vexé. Désagréable, irritant, dégoûtant même. Pourquoi? Ce n'est pas parce qu' il n'y ait pas un miracle avec une fin heureuse. Ce n'est pas ça. La réalisatrice (et aussi scénariste) Dorota Kędzierzawska donne de l'espérance, prépare une aventure au risque de leur vie et à la fin elle donne la déception à ces trois enfants, pour le seul but de faire voir aux spectateurs adultes en quelque sorte l'enfant qui n'abandonne pas l'espoir et vit avec le sourire voyant le futur. On peut dire que c'est la même que le porno, c'est à dire faire voir ce que les spectateurs veulent voir, en abusant les enfants. Sans une aucune critique sociale de soulever le problème des enfants.

(écrit par racquo)


(Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.)



2013/03/19

『チェリーについて』About Cherry

Vous pouvez lire une critique en français au bas de la page.



原題:About Cherry
監督:スティーヴン・エリオット
Stephen Elliott
撮影:ダーレン・ジェネット
2012 USA color102min
出演:アシュレイ・ヒンショウ、ジェームズ・フランコ、ヘザー・グラハム、デヴ・パテル
Ashley Hinshaw, James Franco, Heather Graham, Dev Patel
2013.03.09 桜坂劇場ホールCにて

溝口健二の『夜の女たち』が1948年で『赤線地帯』は1956年。2作は戦後3年と11年のものだが、病気の子供をかかえながら戦争から復員しない夫を待つ妻であったり、結核で仕事のできない夫と赤ん坊を持つ女、疑獄事件の父の保釈金を得るために娼婦になった娘、息子の学費のために秘密で身を売る女であったりと、戦後の貧困や女を蔑む男社会の物語だった。


雑誌のインタビューで好きな監督3人を訊かれて「溝口と溝口と溝口」と答えたこともあるゴダールの『女と男のいる舗道』は1962年。変な言い方ながら白くなる前の黒いパリでの物語。ド・ゴール政権で文化大臣だったマルローはパリの建物の洗浄計画を60年代に実施した。主要燃料が石炭だったので石造りのパリの建物は(凱旋門やノートルダムも)煤で黒ずんでいた。19世紀末・20世紀初めの写真を見ると煙突からは黒い煙が吐き出され、パリの空は黒いスモッグに覆われている。


そう1968年は五月革命の年。ちょうどこの1968年を境として、フランスでは社会的・文化的・政治的変化があり、イメージとしても白く明るいパリの街並みとなった(白いと言ってももちろん文字通りのホワイトではなく石材の淡いベージュ色)。フランスがアルジェリアの独立を承認したのが1962年。1964年の『シェルブールの雨傘』はその前後の推移を描写してもいる。『女と男のいる舗道』はこの転換点の前のフランスであり、やはり戦後の時代と言うことができるだろう。意に沿わぬ結婚生活から逃れてパリに出てきたナナ(アンナ・カリーナ)はアパートの家賃すらままならぬ生活から、娼婦へと身を落としていく。


20世紀末から映画のテーマとなるのは少し違った状況だ。ダルデンヌ兄弟の作品がやたらとカンヌで賞を取っていることでもわかるが、一つの流行りのテーマは家族崩壊というか、親に見捨てられた子供の物語。戦後と比べれば全体的には豊かにはなったが、社会的エリートと非エリートの、資産家と無産家の、資本家と労働者の、経済的格差は広がる一方だということも背景にある(親の側にとっても)。そんな社会で飲んだくれのアル中の母を持ち、荒れた家庭に縛られている娘がこの映画のアンジェリーナだ。洗濯店での肉体労働の仕事はあるものの安月給だし、それも多くを母親に搾取されてしまう。この先もこのままの状態を続ける人生に希望は持てない。


しかしアンジェリーナは美しい顔と体を持っていた。ひょんなことから住んでいる地元の小さな町でネットの有料サイトのヌードモデルをすることになる。そしてそれで稼いだお金を持って家出。彼女にとっては恋愛対象ではない男性の友人と大都会サンフランシスコに行く。最初はバーのウェイトレスなどをしているが、やがて大都会のメジャー有料サイトで動画のモデルとなり、AV女優となり、成功していく。平行して描かれるのは最初のバーの仕事のときに知り合った男性(もともと資産家でエリート階級の出)との恋物語だけれど、ラスト近くの彼のセリフは男が「性の商品化された女性」の需要者でありながらそうした女性を蔑視するという男本位社会を示している。また途中わざわざアンジェリーナの働くAVサイトの経営での女性たちの搾取を暗示する場面が描かれていた。


ゴダールの映画のスティル写真でも有名なのは文字中心のポスターが多数貼られた壁の前で娼婦アンナ・カリーナがタバコを吸っているもの。この映画の中で「CAPITALISM IS OVER! IF YOU WANT IT(あなたが望めば資本主義は終わる)」というジョン・レノンを文字ったコピーによる運動のポスターの前を闊歩するアンジェリーナの姿があった。このコピーの内容自体がゴダールにもつながるし、文字ポスターの前の女性主人公ということで映像的にゴダールを連想させる。また主人公が外出の約束をドタキャンするとき男友だちに言うちょっと妙なセリフがある。「じゃあ明日にして、映画に行ってもいいし、アンナ・カレーニナの、カレーニナでいいんだっけ?、の話をしてもいいし。」というもの。なんで唐突にアンナ・カレーニナなのか。考えてみればこれはアンナ・カリーナへの暗示なのだ。つまりはゴダールへの言及とみることができる。


この映画は傑作でも名作でもなく、凡作・駄作と評価する人もいるだろう。アンジェリーナは生活のために娼婦に身を堕とすわけではなく、ヌードモデル、AV女優、そして監督となっていく。最初は特に明確な意志があったとは言えないかも知れないが、自分の持てるものをもとにこの世界で生きていく。いわば21世紀アメリカ・バージョン、あるいはスティーヴン・エリオット流『Vivre sa vie(女と男のいる舗道)』(=与えられた自分の人生を生きる)ではないだろうか。自分としてはけっこう好きな作品だ。ちなみに過去に見た映画で2002年のフランス映画・オリヴィエ・ダアン監督『いつか、きっと』もやはり一種の『Vivre sa vie』で、その意味ではオススメだ。

映画度:★★★/5*




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.03.19   
ラッコのチャーリー


Angelina, 18 ans, vie avec sa mère alcoolique dans une petite ville. Elle est intelligente et belle, et elle a une certaine conviction en elle-même. Mais toutefois elle travaille dans une laverie automatique, dont le revenu bas et sans doute exploité par sa mère. Par hasard elle pose nue pour des photos d'un site internet. Avec l'argent qu'elle en a eu, elle quitte la ville pour partir à San Francisco. Là tout d'abord une serveuse de bar, et commence l'actrice de porno avec succès. A la fin elle en devient même la réalisatrice.

Dans le film il y avait deux scènes qui ont attiré mon attention. D'abord c'est la scène où Angelina marche devant une grande affiche CAPITALISM, IS OVER IF YOU WANT IT.  L'héroïne devant une affiche des lettres sur le mur m'a fait me souvenir du film de Godard. D'ailleurs la phrase écrite (c'est une parodie de John Lennon mais aussi) pas étrangère à JLG. La deuxième c'est le dialogue d'Angelina. Elle dit à son copain: on pourra aller au cinéma ou parler d'Anna Karenina (Karénine), c'était bien Karenina, non? Pourquoi brusquement Anna Karenina, ici? Oui, sûrement une allusion à Anna Karina. Ces deux points sont une référence à Vivre sa vie de Godard. 

Malgré les mauvaises conditions familiales avec sa mère alcoolique et malgré dans cette société d'inégalité de richesse et de machisme où celui qui achète et consomme le porno méprise les femmes qui le fourni, Angelina vit avec tout ce qu'elle a. On peu considérer ce film comme une version à l'Américaine de Vivre sa vie de nos jours du réalisateur Stephen Elliott. Certes ce n'est pas du tout un chef-d'œuvre mais quand même je l'apprécie.


(écrit par racquo)


(Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.)








2013/03/17

『わたしたちの宣戦布告』La guerre est déclarée



Une brève critique en français au bas de la page.



原題:La guerre est déclarée
監督:ヴァレリー・ドンゼッリ
Valérie Donzelli
脚本:ヴァレリー・ドンゼッリ、ジェレミー・エルカイム
Valérie Donzelli, Jérémie Elkaïm
撮影:セバスティアン・ビュッシュマン
2011 France color100min
出演:ヴァレリー・ドンゼッリ、ジェレミー・エルカイム、ガブリエル・エルカイム
Valérie Donzelli, Jérémie Elkaïm, Gabriel Elkaïm
2013.03.14 桜坂劇場ホールBにて
映画度:★★★★/5*

映画ファンと言っても色々なタイプの人がいる。そんな中でも映画の理論や技法などに強い関心を持ったタイプがいて、たぶん自分もそこに属するのだけれど、そういう人となら何時間でも語り、議論が出来るテーマに「映画とは何か?」とか「(劇)映画のドキュメンタリー性」とか「役者の演技論」とかいうのがある。この『わたしたちの宣戦布告』は、ただ映画の語りに素直に従って物語られることを楽しむことができる映画だし、そうした映画としてもとても良作なのだけれど、こうした議論のネタとしても実に興味深い。


若いカップルの幼い息子が悪性の脳腫瘍であることがわかり、子供の難病をなんとか治そうという若い父と母ふたりの奮闘の物語なのだけれど、その若いカップルとは監督・ヴァレリー・ドンゼッリとそのパートナーであったジェレミー・エルカイムがモデルであり、そのふたりで脚本を書き、それぞれの役をそのふたりが演じている。5年後の現在時として登場する息子の役を演じているのは、他ならぬふたりの実の息子、脳腫瘍だったガブリエル・エルカイムである。


とは言っても映画は映画。ドキュメンタリーでも再現フィルムでもない。設定自体母はヴァレリーではなくジュリエット、父はジェレミーではなくロメオ、つまりロミオとジュリエット。息子はガブリエルではなくアダム(フランス語発音ではアダン)だし、ロメオとジュリエットの職業はヴァレリーやジェレミーのような映画人ではない。映画の中でロメオは新聞の今日の星占いの魚座のところをジュリエットに読んで聞かせるシーンがあるけれど、映画ではなくリアルのヴァレリー・ドンゼッリは3月2日生まれの魚座だ。制作者(ヴァレリーやジェレミー)がこういう現実と仮構を操っているのはもちろん意図的だろう。


「役になり切る」という言い方がある。ここで短文での説明では誤解の恐れはあるけれど敢えて書くと、役者の演技というのは「役を介して自分を表出、表現、そして解放する」ものだと思っている。「役になる」のではなく「役を利用」していると言った方が良いだろう。だから役(その背景にあるストーリー)を介して自分をさらけ出しているのが演技だから、劇映画というのも実はそういう役者の様子を撮影しているドキュメンタリーだ。そしてこの物語で言えば子供の難病との戦いを経験したリアル・カップル(ヴァレリーやジェレミー)にとっては、映画を作り、またその中で演じることはカタルシスでもあるはずだ。(この辺の演技論、映画論に関しては、今書きかけの「映画度」で論じるつもりでいる。)


まあそんなややこしいことは抜きにしてこの映画は良い。スタンスとバランスが良い。例えばこの手の映画では手術シーン等が描かれることが多いけれど、ここではそれがほとんどない。病気の息子の母と父との物語なのだし、リアルのヴァレリーとジェレミーは待合室など別の場所で9時間の手術が終わるのを待っていたはずだ。これは彼らふたりの物語であって、息子アダン(なりガブリエル)の物語ではない。そしてこのカップルを軸にして周囲の人たち、親類(息子も)・友人・医師・看護人と彼らふたりの関係、絆の物語なのである。言うなれば不幸な出来事、と言っても描写自体はわざと重たくならにように作られているが、そんな「不幸な出来事を通しての生や絆の賛歌」になっている。そこがこの作品の力であり、美しさでもある。


映画の作りに関してもかなり映画的だ。ある意味単純なストーリーだから、わざわざ逐一会話を聞かせなくともその場面での話の内容は想像できる。検査結果が脳腫瘍だとわかったとき、ジュリエットがロメオに電話して伝える内容、あるいは親族の一人から別の一人に知らせる電話の内容、こうしたことは聞かずともわかる。だから音声は音楽をのみにする。つまり映像だけを見せるサイレント的ものとなる。映画を見ながら途中ちょっと思い出したのはルルーシュの『男と女』だった。音楽はフランシス・レイではなくここではヴィヴァルディその他だけれど、その使い方がかなり巧みだ。そしたら映画の最後の最後の場面はルルーシュの『男と女』の海岸のシーンを引用した作りだった。ジェレミー・エルカイムはかなりのシネフィルらしい。


ちなみに監督のヴァレリー・ドンゼッリはこれまで自分にとっては『待つ女』や『マルタ…、マルタ』に出演していた印象深い女優さんだった。どちらの作品もかなりの良作なので機会があればご覧のほどを…。




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.03.17   
ラッコのチャーリー



Un beau et puissant hymne à la vie, l'amitié, aux relations entre les gens. Le caractère du film un peu rare; Valérie Donzelli et Jérémie Elkaïm ont adapté leur histoire vécue à un scénario, ils en ont joué les rôles eux-mêmes, et elle l'a dirigé. Faire un film, jouer un rôle, c'est quelque chose de s'exprimer ou s'exposer et aussi de se libérer, pour un réalisateur ou un acteur. C'est pourquoi tout film est un documentaire des acteurs qui jouent. Les scènes réussites avec seulement la musique comme le son (Vivaldi par exemple), c'est de faire voir l'image, c'est de raconter par image comme les films muets, m'ont fait penser à Claude Lelouch, alors à la fin (avec leur vrai fils Gabriel Elkaïm) c'était la scène de la plage d'Un homme et une femme.

(écrit par racquo)

2013/03/10

Liste de critiques en français (cinéma)



Ce blog est essentiellement écrit en japonais. Toutefois il y des pages où il y a un comentaire ou une critique en français. Dans la plupart des cas le texte en français se trouve tout en bas de la page. Cette liste se renouvellera.






About Cherry de Stephen Elliot (2012)

Ashley Hinshaw, James Franco, Heather Graham, Dev Patel

Celeste & Jesse Forever de Lee Toland Krieger (2012)
avec Rashida Jones, Andy Samberg, Emma Roberts, Elijah Wood

Enemy de Denis Villeneuve (2013) 
avec Jake Gyllenhaal, Mélanie Laurent, Sarah Gadon, Isabella Rossellini

Face à face d' Abdelkader Lagtaâ (2003) 
avec Sanaâ Alaoui, Younes Megri, Mohamed Marouazi, Bouchra Ijourk, Soumaya Chifa

Flight de Robert Zemeckis (2012) 
avec Denzel Washington, Kelly Reilly, Tamara Tunie

Footnote de Joseph Cedar (2011) 
avec Shlomo Bar Aba, Lior Ashkenazi, Alisa Rosen, Alma Zack, Daniel Markovich, Micah Lewensohn, Yuval Scharf

Irma Vep de Olivier Assayas (1996) 
avec Maggie Cheung, Jean-Pierre Léaud, Nathalie Richard, Bulle Ogier

Jutro będzie lepiej (Tomorrow Will Be Better)
de Dorota Kędzierzawska (2011) 
avec Oleg Ryba, Evgeny Ryba, Akhmed Sardalov, Stanislaw Soyka, Aleksandra Billewicz, Kinga Walenkiewicz

La Chasse (Jagten)  de Thomas Vinterberg (2012)
avec Mads Mikkelsen, Thomas Bo Larsen, Annika Wedderkopp, Lasse Fogelstrømde  

La danza de la realidad d' Alejandro Jodorowsky (2013)
avec Brontis Jodorowsky, Pamela Flores, Jeremias Herskovits, Alejandoro Jodorowsky, Bastián Bodenhöfer

Le direktør de Lars von Trier (2006)
avec Jens Albinus, Peter Gantzler, Friðrik Þór Friðriksson, Benedikt Erlingsson, Mia Lyhne, Iben Hjejle, Louise Mieritz, Jean-Marc Barr

La guerre est déclarée de Valérie Donzelli (2011) 
avec Valérie Donzelli, Jérémie Elkaïm, Gabriel Elkaïm

Moonrise Kingdom de Wes Anderson (2012) 
avec Jred Gilman, Kara Hayward, Bruce Willis, Edward Norton, Bill Murray, Frances McDormand, Tilda Swinton, Jason Schwartzman, Harvey Keitel, Bob Balaban

Parkland de Peter Landesman
AvecZac Efron, Marcia Gay Harden, Billy Bob Thornton, Jacki Weaver, Paul Giamatti

Pieta (Pietà) de Kim Ki-duk (2012)
avec Jo Min-soo, Lee Jung-jin

Tokyo Kazoku de Yōji Yamada (2013)
avec Yû Aoi, Satoshi Tsumabuki, Kazuko Yoshiyuki

We Are What We Are de Jim Mickle (2013)
avec Julia Garner, Ambyr Childers, Bill Sage, Kassie Wesley DePaiva, Michael Parks, Wyatt Russell



Liste de toutes les pages (en japonais)

2013/03/07

『フライト』Flight



Il y a une brève critique en français au bas de la page.



原題:Flight
監督:ロバート・ゼメキス
Robert Zemeckis
撮影:ドン・バージェス
2012年アメリカ 139分カラー
出演:デンゼル・ワシントン、ケリー・ライリー、タマラ・チュニー
Denzel Washington, Kelly Reilly, Tamara Tunie
2013.03.05 シネマQ ホール5レイトショー
映画度:★★★/5*

予告編を見ただけの予備知識で観にいった。「男は一夜にしてヒーローになった。フロリダ州オーランド発、アトランタ行きの旅客機が原因不明の急降下。ウィトカー機長は墜落寸前の機体を回転させ、背面飛行により緊急着陸を成功し、多くの命を救う。それはどんな一流パイロットにも不可能な、まさに奇跡の操縦だった。マスコミがウィトカーの偉業を称え、彼は一躍、時の人となる。ところが、ある疑惑が浮上する。彼の血中からアルコールが検出されたのだ。あの日、機内で何があったのか―? 果たしてウィトカーは、真の英雄か、それとも卑劣な犯罪者か―?多くの人々の人生を巻き込む、驚愕の真相が暴かれる。」というのが公式サイトの解説だが、予告編(日本版)もほぼこの線で作られていた。自分はパニック映画は特に好きなジャンルではないが、飛行機好きだからその「奇跡の操縦」のシーンに惹かれて見にいった。


実際には人間ドラマで、もっと限定すれば「アル中もの」だった。アル中ものと言うと、古典的作品ではワイルダーの『失われた週末』(1945)があり、これも既にかなり古いがジェーン・バーキンとジャン=ルイ・トランティニャンが出演していたレジス・ヴァルニエ監督のフランス映画『悲しみのヴァイオリン』(1986)、そして男女を入れ替えたものではメグ・ライアンの『男が女を愛する時』(1994)などが思い出される。今回のこの『フライト』も派手な航空機シーンはあるものの、基本はこれらの作品と大差はない。だから正直「今さら?」感、「また?」感は否めない。ただこの映画では女性の客室乗務員も以前にアルコール依存症の治療プログラムを受けたことがあるという設定だし、アメリカでは日本よりはるかに薬物(麻薬・覚せい剤)の問題もあるだろうから、今日でもこの映画のテーマはアメリカ的には深刻なものなのかも知れない。


でもそれはそれとして、この作品を見ながら、あるいは見終わって、なにか釈然としないモヤモヤが残った。それは何故だろう?。副操縦士ケンとその妻、客室乗務員マーガレットなどのバプティスト系プロテスタントの信仰が必要以上に描かれていたからだろうか?。いや違う。後で事故で入院したウィトカーが病院で出会うことになるニコールのそれまでのことが、映画冒頭から航空機事故シーンと平行して描かれるそのあり方のちょっと不器用な脚本・編集のせいか?。いや違う。だいたいこれは139分のこの長い映画の最初の方のことでしかない。そして気付いたのは、問題はデンゼル・ワシントンの演じる主人公の機長ウィップ・ウィトカーの人物像だということだ。


この機長ウィトカー、酒を飲んで酩酊してはコカインで覚醒するという状態で旅客機を操縦するというとんでもない輩ではある。妻に出ていかれティーンの息子にも嫌われているけれど、それはアル中が原因であり、妻に出ていかれたからアル中になったわけではない。弱い人間だということは理解できても、彼をアル中に追いやったものが何であったかがほとんどわからない。ウソでかためて自分の体裁を作り上げてきた彼なのだとは思うけれど、その何故がわからない。兵役時代は優秀なパイロットであったらしい。飛行機やその操縦は好きだろう。そして旅客機のパイロットになれた。結婚もし子供も出来た。その彼はアル中になった。それは何故?。だから「ウィップ・ウィトカーはアル中の機長」という設定だけが最初からあるのみなのだ。


「高度3万フィートで突然機体トラブルが発生した。普通のパイロットならば墜落していたところを、ウィップ・ウィトカー機長の天才的操縦術で大惨事になる人口密集地も避け野原に不時着。乗員・乗客102人の内死者は6名のみ。」という航空機パニック映画(シーン)を、「その機長を最初から設定のための設定でアル中とし、その彼のアル中ドラマを描く」というアル中もの映画にくっつけただけであり、前者になかなかの醍醐味はあるが、メインであるはずの後者が人物描写、あるいは初期設定としていまいち十分に描かれていない。これがこの作品の全体としての印象だ。


このサウスジェット227便アトランタ行きがオーランドを出発するときには、高度3万フィートで昇降舵が動かなくなることなどわかってはいなかった。だから酒が残った状態で乗務した(さらには機内でアルコールを摂取した)ウィトカー機長の、飲酒に関する点には言い訳の余地はない。しかし問題は3万フィート上空で機体が故障し、事故後にシミュレーターで実験されたように他のパイロットでは墜落して乗員・乗客102名はすべて死亡し、墜落地点によっては市街地・人口密集地でさらに人的被害が出たかもしれないのを、このアル中のパイロットは天才的操縦技術と判断で死者を6名に押さえることができた。


この神業的緊急着陸をし得たことで、飲酒の問題は免責にしてもよいのか?。あるいはマスコミや大衆がこのことをどう考え、判断するか?。やったことは見事で人命も多数救ったが、そのこととは無関係ながら飲酒操縦という罪を犯した機長をどう評価するのか?。実は予告編からボクが期待したのはそういう問題が描かれていることだった。単にボクが予告編のメッセージを誤解しただけかも知れないが、そう誤解させるような予告編の作りであったことも事実だ。アル中の個人ドラマではなく、社会ドラマだったらな、と思う。




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.03.07   
ラッコのチャーリー


En regardant la bande annonce, j'ai erronément cru que ce soit un film d'un drame plus social, c'est à dire le problème qui existe entre le pilotage miraculeux qui a sauvé la vie de tant de personnes et le pilote qui avait pris de l'alcool. En quelque sorte «Est-ce qu'on peut (ou doit) le tolérer d'une certaine manière, puisqu'il a sauvé beaucoup de vies? Puisque si ce n'était pas lui le pilote, tout le monde à bord et aussi des personnes sur terre seraient tués probablement». Cependant Flight est un film d'un simple drame démodé de l'alcoolique de ce pilote. Certes les scènes de l'avion sont magnifiques mais tout le reste est très médiocre dont on ne comprend pas très bien le pourquoi de l'alcoolodépendance du héros. Comme actrice, Kelly Reilly jouait bien et charmante; je l'aime bien depuis L'auberge espagnole.
(écrit par racquo)





2013/03/04

『ドキュメンタリー映画 100万回生きたねこ』




監督・撮影:小谷忠典
出演:佐野洋子、渡辺真起子、フォン・イェン
2012日本 91分カラー
2013.03.04 桜坂劇場ホールCにて

いうなれば、作品がダブル・マスターベーションの世界で、観客はこの映画を観ながら3番目のマスターベーションを出来るかどうか?、がポイントではないだろうか。

こんなことを冒頭から書くのには実は理由がある。この作品は見ないつもりでいたのだけれど、劇場のS嬢が「映像は奇麗らしいのだけれど、男の観客が怒ってしまう作品らしい。それも無料の試写会で。」と言うのを聞いて、ではどんなものなのか見てみようではないかと思ったのだ。

いくつかの観客レビューを見ていたら、タイトルにはわざわざ「ドキュメンタリー映画」とあることに対する不満もあったが、それは単にこの作品が絵本「100万回生きたねこ」の映画版ではないということを明確にするためと解釈しても良いだろう。レビューの中には、もっと絵本「100万回…」やその著者・佐野洋子についてのドキュメンタリーにして欲しかったというのもあった。しかしドキュメンタリーのあり方としてはこのようなのもアリだろう。だいたいが客観的なドキュメンタリーなどあり得ないのだから。


問題はだから小谷忠典がこの絵本を題材に表現した内容そのものにある。たしかにこの作品は絵本の内容や著者を追っているところもあるけれど、絵本とは直接関係のなさそうな人(茶摘みをしていた農家の女性とか)や、絵本の読者の中でもひと掴みの特異な女性たちを意図的に選んでいる。この絵本が世界的ベストセラーであることは事実だけれど、大多数のすべての読者は決してここで紹介された女性たちのような人々ではない。

では特異な読者とは何者か。それは例えば少女時代に親に存在を否定され、鬱病になり、リストカットをしてきたような女性だ。その女性の不幸な人生や精神のあり方に対してボクは何の文句をつけるつもりもない。しかし絵本「100万回…」に無理に結びつけることでそういう女性たちを描こうというのが小谷監督の目的になっている。そして暗闇の中、リストカットの痕がマッチの明かりで照らされるのを写すといった美しい映像を使う。それは彼女たちの一種のマスターベーションに感じられる。


そしてそういう彼女たちにさも共感・同情している自分を表現することで、今度は2番目小谷忠典のマスターベーションを見せつけられる。渡辺真起子を登場させ北京に行かせる演出でそれを押し進める。だから観客はそこに浸って第3番目のマスターベーションができればこの映画を堪能できる。けれどこの女性たちや監督のあり方は、むしろ絵本の著者佐野洋子の語りの内容からやや遊離しているようにも感じられる。やって欲しかったことはもっとポジティブなこと、前向きに生きようとするあり方だ。最後の方にバレエを踊る少女を登場させ、さも前向きなような姿勢を示しているかのようであるけれど、全体の印象はそうではなくもっとネガティブに見えてしまう。




2013.03.04   
ラッコのチャーリー

2013/03/02

『テッド』




原題:Ted
監督:セス・マクファーレン
撮影:マイケル・バレット
2012年アメリカ 106分カラー
出演:マーク・ウォールバーグ、ミラ・キュニス、サム・J・ジョーンズ、ノラ・ジョーンズ、トム・スケリット
2013.02.26 シネマQ ホール5にて
映画度:★★★/5*


この映画はただ単純に楽しみましょう。それ以上を求めると失望するかも知れません。IMDbの観客評を見ると全平均は7.1/10。この作品は若者を描いた映画ではなく35歳のただの男を主人公としているのに、若年ほど(特に男子)高得点を付けている。物語に深みはないということでしょう。


簡単にストーリーらしき(ここで「らしき」と書いたことは後で説明します)を書くなら、友だちを作れない孤独な8歳の少年ジョンはクリスマスに大きなテディベアーをもらう。このぬいぐるみ、胸のあたりを圧迫する(たぶん)と中に仕込まれた音声装置で「I love you.」と音が出る。友だちのいないジョンはぬいぐるみに話しかけるが、もし本当に言葉をしゃべったらと強く願う。するとなんと不思議、ぬいぐるみはあたかも生きた人間のように歩き、動き、話をするようになる。ここまでが導入部分。


メインの話はその27年後の現代。ジョンは35歳。相変わらず(まあ子供時代のぬいぐるみとの約束を守ってのことでもあるけれど)生きたぬいぐるみとなったテッドと男同士の仲間として仲良く一緒に暮らしている。テッドは昔は驚異の生きたテディベアーとして世間にもてはやされ、テレビ出演などもしセレブ扱いだったけれど、今ではほとんど忘れられ、下ねた連発で女好き、ドラッグ好きの不良中年のオジサン・ベアーとなっている。いつから一緒に暮らすようになったかはわからないけれど、ジョンには4年前からつきあっている彼女ロリがいて、男女としては相思相愛、二人はそれぞれ結婚も期待している。でもロリとしてはジョンの悪友テッドの存在がウザくなってくる。そして…、というもの。


この映画の成功点は、アニメーションとのモンタージュとかではなく、実際に動き(表情もある)、話す(声はもちろんアテレコだけれど)ぬいぐるみを登場させたこと。テディベアーだから見た目は可愛らしいのだけれど、中身は中年のオジサンというギャップが面白い。この映画の物語から言えば、オジサンだけれど憎めないコミカルなキャラの人物をジョンの仲間として登場させてもほとんど同じストーリーは描けると思う。まあその場合不自然になってしまうので同居というわけにはいかないだろうけれど。


見た目が可愛いだけではなく、人間に近いけれどあくまでぬいぐるみということで、どこか保護してやらねばならない面を持っているのがテッドのテッドたるゆえん。見方を変えれば、テッドはジョンという人間の一部分を別人格として具現した存在と見ることもでき、そういう作りをメインに用いればもっと深い映画を作ることも可能だったろう。その場合には最後にテッドに消えてもらうことがストーリー上の必然とはなるが。


さて最初の方に書いたストーリーらしきということについて。これが実はこの映画をボクがあまり評価しない理由だ。最初なぜこの愛らしき映画を自分が素直に肯定できないのかちょっと考え込んでしまったが、だんだんにわかってきた。この映画の話の流れを簡単に示すと、ややネタバレにはなるけれど次のように要約できるのではないだろうか。

 テッドとジョンとロリの同居(上手くいかない)
 ↓
 テッドの別居やロリとジョンとの不和
 ↓
 テッドとジョンとロリの同居(上手くいく)

映画が描くのは主に中間部分であるゴタゴタだ。でもそのゴタゴタの前後で、実は何も変化していない。「テッドとの同居にロリが拒否を示し、最初はうまく行かなかったが、中間部分のゴタゴタを経て、ロリなりテッドなりジョンが成長したとか、相互理解が成立し、最後には上手くいくようになった」というのなら良いのだが、この映画の作りはそうではない。最初と最後で人物の成長や変化は感じられない。つまり映画は中間部分のゴタゴタを描いているだけなのだ。これではまったく不毛だ。つまりこの映画にはシーンはあっても、ストーリーがない。


そして『フラッシュ・ゴードン』をはじめとする映画その他に対するオマージュや引用は、サム・J・ジョーンズまで登場させているのだが、実のところこの作品の全体と必ずしも噛み合っていない。なにかとってつけたようにしか感じられない。こういう方向でいくなら、もっとちゃんとやるべきだ。つまりはこの映画、動き・しゃべるぬいぐるみテッドを登場させた以外は、すべてが中途半端。だから最初に書いたように、ただただテッドの出るシーンを単純に楽しみましょう。ストーリーらしきはないのだから…。




*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.03.02   
ラッコのチャーリー