2014/07/31

『肉』We Are What We Are


Il y a une brève critique en français sous le texte japonais.




原題 Titre original:We Are What We Are
監督・編集:ジム・ミックル
Réalisé et monté par Jim Mickle
脚本:ジム・ミックル、ニック・ダミチ
Écrit par:Jim Mickle et Nick Damici
撮影:ライアン・サミュエル
Prise de vue:Ryan Samuel
2013 USA / color 105min (ratio 2,35)
出演:ジュリア・ガーナー、アンバー・チルダース、ビル・セイジ、キャシー・ウェスリー・ディペイヴァ、マイケル・パークス、ワイアット・ラッセル
Avec:Julia Garner, Ambyr Childers, Bill Sage, Kassie Wesley DePaiva, Michael Parks, Wyatt Russell

2010年ホルヘ・ミッチェル・グラウ監督のメキシコ映画 "Somos lo que hay"(We Are What We Are)のリメイク
Remake du film mexicain «Ne nous jugez pas» (2010) de Jorge Michel Grau


2014.07.14 桜坂劇場ホールB
2014.07.16 桜坂劇場ホールB
2014.07.25 桜坂劇場ホールCにて
Rating in Japan:R18+


週に二度、三度と桜坂劇場に通っていると、この劇場で上映されるほとんどの作品の予告編は何度も観ている。でもたまたまこの『肉』の予告編を観る機会はなかった。チラシももらっていたが表面の、スープかシチューのようなものの入った皿が載った食卓を前に腰掛けた姉妹とその背後に立って娘の肩に手を置いた父親の3人の記念撮影風の写真を見ただけで、裏面の解説は読んでいなかった。劇場の会報の2百字ほどの説明を読んだだけで、この劇場で観る作品としては事前の情報はいたって少なかった。にもかかわらず、映画が始まって少しずつ進んでいくうちに、ストーリーのおおよそは予想出来てしまった。原題は「私たちは私たちがそうであるところのものである」(←いささか古くさい翻訳調の訳!)ぐらいの意味なのだが、日本語の「肉」というタイトルと「可憐な姉妹の想像を絶する(…)過酷な(儀式)」という説明が多分にネタバレしてしまっている。ちなみにこの解説文自体は少し実際とはニュアンスがあって、姉妹は儀式の内容をもともと知っているのだから「想像を絶する」は不適当な表現かも知れない。ところでそんな少ない情報からボクはこの映画になんとなく胡散臭い予備印象を持ってしまっていて、上映日時やボクの多忙度によってはパスした作品になったのだが、先月からどちらかと言うと映画館で映画を観ることが少なかったのでとりあえず観にいった。そして気に入って2日後には2度目を観にいった。そして上映最終日に3度目も観た。

後で調べてわかったのはこの作品が3年前のメキシコ映画のリメイクであること。そのメキシコ映画を調べてわかったのは、スペイン語原題は英訳するとこの『肉』と同じ「We Are What We Are」であること。『肉』では母親が死んで娘2人と父親(それと幼い息子)が残され、長女が母親の役割を継承するのに対して、メキシコ原作では性が逆で、父親が死んで母親と息子2人と娘1人が残され、まだティーンの長男が父親の役割を継承するという作りだということ。長男は妹と心理的だとは思うけれど近親相姦的なものが多少あり、あるいはまたホモセクシュアルなところもあって、性的自己確立という要素も含まれているらしいこと。メキシコの都市貧民の貧困も物語の背景にあること。等々なのだけれど、どうもこの作品は日本未公開・未DVD化らしく、是非観たいところだけれど、そのためには今のところ高いお金を出して外国盤をAmazon France か Amazon UK で買うしかない。監督のホルヘ・ミッチェル・グラウの日本で普通に観られる作品は26人の監督の各5分からなるオムニバス映画『ABC・オブ・デス』だけのようだ。


以下ネタバレ部分は***で記載し、最後に註として実際の言葉を表示してあります。

このリメイクでは舞台はニューヨーク州だかデラウェア州の山中の寒村に移されていて、産業があまりなくて忘れられた土地で、仕事がないので出て行く人々もいるような場所。おりしも記録的な大雨で洪水の被害が出ている。冒頭に "I do it of love. God's will be done." Alyce Parker という引用が画面に映る(私はそれを愛から執り行う。神の意志は成されるべきである。)。アリス・パーカーって誰だっけな?、と思っているとこの映画の家族がパーカー家であることがすぐわかり、この家族に伝わる儀式を執り行った初代がアリス・パーカーで、その残された日記の引用であることがやがてわかる。当代のエマ・パーカー(冒頭で死ぬ母親)が窓から外を眺めているのが写される。エマはレインコートに身をかため、車のキーを取ると町の店に買い出しに出かける。体調は悪そうで、手が小刻みに震えている。店でロープやら懐中電灯を買おうと手にしているがボーとして、あるいは意識が病的に薄れた状態で心ここに有らずで、店の主人に「パーカー夫人!」と何度か声を掛けられやっと我にかえり、「頭痛がひどくて。」と言う。小さい町の雑貨から食品まで売る店にはちょうど子豚が一頭運びこまれ、またミンサーからひき肉が出てくるのが写される。買物を済ませ大雨の外に出ると、掲示板に貼られたMISSING(行方不明者)の捜索チラシを眺める。突然彼女は口から血を漏らし、ふらふらよろめくと倒れ、鉄の杭に頭をぶつけて失神する。大雨で深くなった道路脇の大きな水たまりで溺死する。


家ではまだ小さな末の息子ローリーがお腹が空いたとスナップポップ(シリアルの一種?)をねだるけれど、今日は毎年恒例の断食の初日の金曜日。日曜日までは水と牛乳以外は飲食してはいけないと姉のアイリス(長女)にたしなめられる。母親エマの死を知らされた家族4人が押し黙ってテーブルについているシーン、まだ幼いローリーはおもちゃのダンプカーに何やら細かい粒の食べ物(レーズン?)を積んで遊んでいる。テーブルにその積荷を降ろすと一粒をローリーは口に入れる。妻エマの死で沈んでいた父親フランクは突然激しい動作と口調で息子に詰め寄るともの凄い剣幕で口に入れた食物を吐き出させる。「ジーザスが…」という歌が後で出てくることでキリスト教の一種であるらしいことはわかるのだが、何かとても狂信的、原理主義的な信仰をこの家族、特に父親が持っていることがうかがわれる。


医師バローのもとに死体確認にやってきたのは憔悴したフランクではなくアイリスとローズだ。アイリスが死体確認をした後、医師バローは検視(検死)をする。「健康な肝臓。左冠動脈にわずかな石灰化。右外側広筋に萎縮が見られ、パーキンソン病の初期症状…。」このパーキンソン病はやがてこのバロー医師により、→プリオン病、→クールー病、→***(1)(****(2))、と解明されていく。そのきっかけとなるのは行方不明になったままの娘に供える花を川辺に摘みにいったときに愛犬が人骨の一部らしきを発見したからなのだが、上にも書いたように少ない事前情報ながら映画の筋の概要は見通せてしまうので、サスペンスは観客ではなく映画内で医師バローがパーカー家の謎を解明していくというものだ。そしてもう一つは父親と二人の娘の対峙だ。


この映画は役者の演技が良く、それが何度も映画館にボクを通わせた理由でもある。二人の姉妹(ジュリア・ガーナーとアンバー・チルダース)が特に良いのだが、それでもアイリス(チルダース)の演技にときとしてやや不適切と感じられもする部分があった。それは女優チルダースの問題であるよりは監督ミックルの演出力不足、ないしはそのシーンでのアイリスに関する監督の捉え方の理解不足だと思われる。良い作品ではあるのだけれど監督の詰めの甘さのようなものを感じた。映画冒頭降りしきる雨の中の自然を写した映像が何ショットも続き、やがてカメラはパーカー家の屋敷に辿り着くのだけれど、その映像の連鎖は完璧からはほど遠い。各ショットの持続時間や順序・組合せが不適切だ。あるいはローリーが地下室にやってきて怪物(お化け)に遭遇するシーンでは、風もないのになぜかまずドアが開いて、そこに階段を下りてきたローリーがやってくるというあり得ない映像。ドアのすぐむこうにある階段の最後の段を降りる前にローリーがそのドアを押して開くということは不可能だ。かといって人物を導くように自然にドアが開くというようなホラー映画によくあるような作りではもともとない。


こうした映画にこんな文句をつけるべきではないかも知れないが、マジでこのストーリーを考察するならば、少々あり得ないという感もないではない。現在のパーカー家は父フランク、母エマ、娘のアイリスとローズ、息子のローリー。携帯電話が登場するからほぼ現代の話と考えてよいと思うが、すると初代のアリス・パーカーから既に2百年以上この家に伝わる儀式は続いていることになる。父フランクの姓はパーカーだから、この父が血縁的には2百年前のアリスの子孫なのだろうか。でもこの儀式は神に選ばれたパーカー家が執り行なうもの。この信仰を持っているのはこのパーカー家だけ。すると2百年で6世代か7世代、現在の母エマにしても同じ狂信的な信仰を持たない他家から嫁にきたはずだから、どうしてこの異常な信仰をエマが共有することに至ったのであろうか。周囲に同じ信仰を持つ人々がある一定数存在するわけではないらしいから、エマ一人だけならまだしもそれが6回も7回も続いたというの考え難い。映画の中に、

  ローズ:私たちも他の皆と同じような家族であったら良かったのに。
  アイリス:でもちがうのよ。

というやり取りがある。もし話がたんに毎年聖週間の聖金曜日、土曜日と断食をし、日曜日に羊でも神に捧げて食物に感謝しつつ儀式的な食事をするというぐらいのものなら、普通はそんなことはしないのにパーカー家だけそれを伝統として執り行なってもさほど異常性はないし、他家から嫁なり婿なりパーカー家の一員となった者にも受け入れられるだろうし、それが家族の伝統として6世代続くことも多いにありうるだろう。そう考えるとこの映画は一方でホラー・サスペンス映画として***(3)を扱い、特にラストに凄まじいシーンを描くことにはなっているけれど、もっと普遍的に家族の習慣や伝統や信仰を守ることとそれに従わざるを得ない子供という物語、親の子供に対する期待と子供の自由の物語、そうしたもののメタファーであると捉えられる。これでちょっと思い出すのは信仰上輸血はしないという例の宗教だけれど、これはたまたま大多数の日本人の基準とは少しずれているというだけで、同じような、もちろんもっと無害(?)かも知れないものは我々人間(あるいはそのある特定の集団)にはあるものだ。豚は食べないとか親のミルクで煮た肉は食べないとか、肉はハラルでないと食べないとかという日本人にはやや無縁な宗教上の制約ではなくとも、なにやかにやその家や一族や集団の習慣やタブウ、禁忌、因習というのはあるものだ。


次女のローズは14歳という設定。若いせいか、あるいは長女という責任がないせいか、姉アイリスよりもより父の、あるいはパーカー家の伝統に反発気味だ。ローリーにスナップポップを内緒で食べさせたりもする。もう儀式はやめようと姉に言うのもローズだ。しかし長女として死んだ母の後を継いで伝統の儀式を行わなければならないアイリスは、「今年はやって、そうすれば今後どうするかの対策は1年の猶予がある。」とかなんとか言う。アイリスはまた高校時代の初恋の、ファーストキッスの相手である今は保安官補になった青年アンダースと愛の行為にも及ぶ。父親にみつかり「ふしだらだ」と言われるわけだが、要は彼女が父親の意に反することを行ったことだ。上に引用した姉妹のやりとりからもわかるように二人は置かれた境遇を喜んでいるわけではない。


そんな二人なのだから、最後に用意されたシーン(衝撃のシーン)はやはり納得できない。父親の思惑(***(4))に巻き込まれないためにローズがあの最初の行為を取るのはひとつの非常手段としてわかる。しかし二人は父親を憎んでいるわけではなく愛しているわけで、この物語はパーカー家の人々にとっては家族劇だ。家の風習上父親の信仰にも従い、あの儀式もとり行っているわけで、二人は決してモンスターではない。なので狂ったように姉妹が***(5)続けるあのシーンは説得力を欠く。二人は、そして断食でお腹が空いて隣家のマージの指を***(6)幼いローリーも、ドラキュラのようなモンスター的な尋常でない血を持っているわけではないはずだ。ではどのような別のラストが考えられるのか。銃を手にしたバロー医師が思いとどまることなく***(7)?。それではあまりに調和的なオメデタイ話に堕してしまう。そもそもあの衝撃のシーンを描くことができなくなってしまう。つまりプロット上、この映画での、家族劇とホラーの合体に無理があると言える。家族劇なら姉妹が父親を***(8)続ける設定は合理性を欠くし、そのシーンを生かしたホラーならば姉妹はモンスターでなければならない。


自分が日曜日に行わなければならない儀式に不安を隠せないアイリスは土曜の夜に寝ている父親のもとに行き「Imagine if we were different. If we were not, as we are.(もし私たちが違うもだったと考えたら。私たちがいまそうであるような私たちでなかったら。)」と漏らす。父は娘を抱き寄せると「What are we? God chose, that we should be as we are. If we do not, as he says, we become ill from the poison. One by one we would die. You can not hide the doubt for him. He knows and sees everything.(私たちは何であるのか。神はお選びになられた、私たちは私たちがそうであるところのものであるべきだと。もし私たちが神の言われることにたがうなら、毒で私たちは病になり、一人また一人と死ぬだろう。神への不信を隠すことは出来ない。神はすべてをご存知で、見ておられる。)」と言う。この父親のセリフが映画の原題だ。


立派な信仰であると言えばその通りなのだが、2百年前にアリスが行い、それがパーカー家の伝統となった儀式とはそもそも何だったのだろう。食べるものもなくなってしまった寒い冬に最初にやったことはやむを得ぬ行為、あるいは「愛による」行為だったかも知れないけれど、それを宗教的に儀式化することで正当化しようとしただけではないのか。上にも書いたようにパーカー家の信仰の基本はキリスト教だ。ならば十字軍のような異教徒との戦争ならばまだしも、同じキリスト教徒を犠牲にするような行為は十戒に反するはずだ。つまりパーカー家の信仰、ここでは父親フランクの信仰とはまさしく狂信でしかない。そして「We are what we are.」あるいはさらに「We should be as we are.」というのは理屈では説き伏せられないことを正当化する都合の良い殺し文句なのだ。これを神のご意思としてしまえば、反発・反論の余地は残されない。だからこの映画の家族劇の要素を観ていると、このタイトルは反語的に響いてくる。


まあそんなわけで設定として無理があり、ストーリーとしての合理的な一貫性は欠いているのだけれど、そこを外せば家族劇の中での二人の姉妹、ホラー部分での(最後のシーンではなくそこに至るまでの)二人の姉妹の描かれ方が非常に秀逸であり、演技も良いのだ。映画というのは首尾一貫性のあるストーリーの駄作よりも、矛盾は隠せないが部分の作りの良いものは魅力的だ。そんな一例をあげるならばジャン・ベッケルの『エリザ』だろうか。




映画度:★★★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2014.07.31
ラッコのチャーリー



Je pense que ce film est un amalgame de deux films qui ne sont pas compatibles; l'un est un film des problèmes familiaux, comme relation père-enfants, convention ou religion familiale, la liberté des enfants etc..., l'autre est un film d'horreur sorte vampire. Les deux filles Iris et Rose sont soumises à leur père, à sa foi fanatique ou plutôt à la tradition familiale qui dure plus de 200 années depuis leur ancêtre et fondatrice de cette tradition Alice Parker. C'est l'ambivalence, l'hésitation de ces deux jeunes filles qui veulent sans doute en être libérées. C'est le côté du film domestique. Suivant cette ligne d'intrigue l'attaque (juste le premier coup) de Rose envers son père peut être compris comme la défense de sa propre vie, celles de sa sœur Iris et de son frère Rory.

Le texte ci-dessous spoile l'intrigue.
Puisque seule Rose sait que son père va leur imposer le suicide de famille. Mais si Rose et Iris continue à manger le corps (faut dire peut-être la viande) de leur père, tout doit être interprété d'un autre point de vue. Elles doivent être des monstres qui aiment le goût de la chair humaine, et c'est le côté du film d'horreur. Cependant le cannibalisme de cette famille ne me paraît qu'un rituel. Les Parker ne mangent la chair humaine qu'une fois par an pendant la période de je ne sait quoi la fête d'agneau sacrifice, après deux jours de jeûne. Le reste de l'année ils ne cannibalise pas. D'ailleurs le cannibalisme initial de leur ancêtre n'était causé que par le manque de nourriture. Ce que la fondatrice Alice a fait c'est de le légitimer en sublimant aux rites religieux et cela est devenu une tradition. Ils n'en ont pas d'instinct. Ils peuvent se passer de la viande humaine. Mais alors comment finir le film? Si le docteur Barrow accomplissait la vengeance en tuant le père? Ce serait un fin trop facile et le film d'horreur devrait échouer. Le climax disparaîtrait. Car on ne pourrait plus peindre les deux sœurs, jeunes et jolies, mordre et avaler avidement la chair de leur père, le sang autour de leur bouche. 

Donc, la coexistence des deux éléments de cet intrigue n'est pas possible. Mais tout de même, malgré l'incohérence, les deux jeunes actrices sont sublimes et j'ai bien aimé ce film.


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)





(註)ネタバレ部分の実文字化
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(1) 人肉食
(2) カニバリズム
(3) 人肉食
(4) 砒素で一家心中
(5) 父親を食べ
(6) 食べようとして噛む
(7) フランクを殺していたら
(8) 食べ

2014/07/30

『リアリティのダンス』La danza de la realidad


Il y a une brève critique en français sous le texte en japonais.



原題 Titre original:La danza de la realidad

監督・脚本:アレハンドロ・ホドロフスキー

Écrit et réalisé par Alejandro Jodorowsky

編集:マリリーヌ・モンティウ

Monté par:Maryline Monthieux

撮影:ジャン=マリー・ドルージュ
Prise de vue:Jean-Marie Dreujou
2013 Chili / color 130min (ratio 1,85)
出演:ブロンティス・ホドロフスキー、パメラ・フローレス、イェレミアス・ハースコヴィッツ、アレハンドロ・ホドロフスキー、バスティアン・ホーデンホーファー
Avec:Brontis Jodorowsky, Pamela Flores, Jeremias Herskovits, Alejandoro Jodorowsky, Bastián Bodenhöfer
2014.07.12 桜坂劇場ホールB
2014.07.29 桜坂劇場ホールAにて
Rating in Japan:R15+



非常なる短評になってしまうけれどまったくの期待はずれ。宗教だ、金だ、人種差別だ、政治だ、親子関係だ…と深そうな体を作ってはいるが内容的にはお底が浅過ぎるし、フェリーニの亜流であるのも醜い。メインであるテーマ曲はショパンのホ短調の前奏曲のパクリだし…(←たぶん正式にショパンの編曲ということにはなっていないと思う)。ちょっと凝って作ったスケッチの羅列で、映画としての求心力を欠く。たいていの映画では、ゴダールの作品ですら、今自分が映画を観ているということを時々忘れさせられ映画に観入っている。しかしこの映画では2時間以上の時間、映画そのものとは距離をおいて、終始映画を観ている自分を意識させられたままだ。パメラ・フローレスのオペラチックな歌唱によるセリフは、この作品を評価しない者からは批判される対象になっているようだが、この部分は自分としては評価したい。主要な役者の中では彼女の演技がいちばん良かったかも知れない。あまりに映画がつまらないので、プロのオペラ歌手である彼女の歌による表現には聴いていられる何かがあったということかも知れない。数字による採点は苦手な自分だけれど、あえて100点満点で採点すれば15~25点といったところか。高尚そうなものを観て悦に浸りたい向きにはオススメだが、同じチリの映画なら『グロリアの青春』を、同じ2013年カンヌの監督週間で上映された作品なら『肉』をオススメしたい。



映画度:★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2014.07.30
ラッコのチャーリー




J'aime « El Topo », j'apprécie « La montagne sacrée », je veux voir « Dune » mais c'est impossible et on annonce le nouveau film de ce réalisateur qu'est Alejandro Jodorowsky. C'est avec une grande impatience que je suis allé assister au Sakurazaka Theater à la première séance du premier jour ( à notre ville ) de « La danza de la realidad ».

………… Une grande déception !!!

Deux semaines plus tard je suis allé le revoir, pour vérifier ou corriger ma première impression avec une petite attente de la réviser.

………… Une plus grande déception !!!

Le film traite la religion, l'argent, racisme, politique, relation père-fils, etc... , mais la considération en est trop simple et superficielle. Certes il y a quelque poésie mais la poétique est vulgaire. Le polychrome est jolie mais banal, avec une scénographie et personnage épigone Fellini. Le film se compose pour ainsi dire d'une énumération des séquences ou des suites de quelques séquences. Une séquence finit et une nouvelle commence; pas de continuité ni cohérence. On peut bien sûr relever l'histoire ou l'intrigue intégrale mais le film en lui-même ne nous donne pas de fil tractif. Comparons à un film de Fellini, par exemple à « La cité des femmes (La città delle donne) ». Les séquences des intrigues bizarres se succèdent. Mais quand on regarde une séquence avec un intérêt de ce qui se passera après, on est déjà, sans le savoir, à la séquence suivante. De là une continuité; transition très douée. En plus chaque séquence est bien séduisante. Quand je regarde un film, il y a des moments où je suis séduit par le monde décrit et j'oublie que je suis dans une salle de cinéma en train de regarder un film. Cela est la force de l'image et de narration. Même avec des film de JLG. Mais en regardant cette danse de la réalité de plus de 2 heures de long, il n'y avait aucune seconde où mon esprit ou imagination a quitté le siège de la salle pour rejoindre le monde du film. Je regardais la suite des sketchs avec sang froid, sans passion. Quant à la parole de la mère Sara (Pamela Flores) chantée à la façon art lyrique, dépréciée par certains critiques et spectateurs, je l'ai bien aimée. Peut-être dans l'ensemble de ce morne film, il y avait ici une certaine force d'expression d'une cantatrice soprano professionnelle; d'ailleurs elle jouait bien le rôle.


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)