2013/04/18

『東ベルリンから来た女』と『シャドー・ダンサー』




2本のヨーロッパ映画がほぼ同時に桜坂劇場で上映されています。ドイツ映画『東ベルリンから来た女』とイギリス映画『シャドー・ダンサー』です。この2本はまったく異なった内容の作品ではあるのですが、印象としてどこか似た面を持っていて、劇場のスタッフとおしゃべりしても「こっちは面白いけれど、こっちは退屈だった。」などと2本は比べられる同種作品の体があります。どちらもヨーロッパ映画であること。女性が主人公であること。政治がらみのサスペンスものであること。1本は冒頭で、他の1本は最後でという違いはあるものの、どちらも主人公が重大な選択に迫られるということ。どちらも70年前の例えばナチスの時代を描いているのではなく、ここ20~30年という比較的近い過去を描いていること。そんな点が共通点かも知れません。どちらも映画としては楽しませてもらいました。その最大の功績はそれぞれの主演女優ニーナ・ホスとアンドレア・ライズブローにあるのですが。

さてまず『東ベルリンから来た女』ですが、ベルリンの壁崩壊前、ドイツ統一前、つまり東ドイツが不自由な共産圏国家であった1980年の物語。首都(東)ベルリンの大病院勤務だった女性エリート医師バルバラが辺鄙は田舎の小さな小児病院に左遷されてきます。どうやら西ドイツへの移住を申請か計画かしたらしい。刑務所にも入れられていたとかいうセリフもあったような気もします。今もシュタージ(秘密警察)の監視のもとに置かれていて、家宅捜索などもときどき受けています。彼女には時々東ドイツに商用か何かで来る西ドイツに住む恋人がいます。その恋人の手引きでバルバラは密かに西側自由世界に逃亡をしようとしていて、その決行日はだんだん近づいています。彼女は小児病院で日々勤務するうち、一方では「もしやシュタージのスパイかも知れない」という疑心暗鬼はあるものの、主任医師の誠実な姿に尊敬の念を感じるようになり、心惹かれるものもあります。そんな彼女が迫られるのは逃亡して西の男を選ぶべきか、留まって東の男を選ぶかというもので、もちろんそれには西の自由な世界で暮らすか、東の不自由な暮らしを受け入れるかという選択が重なっています。そこにある患者とのことが関わるのですが、最後に彼女の下した決断とは?、という物語です。


2本目はイギリス作品の『シャドー・ダンサー』。北アイルランド・ベルファストに小学生の息子と暮らすコレット。一緒に暮らす母や兄弟はすべてIRA派であり、活動をしている。コレットは独立して一人で行動するテロリストと言っても良いかも知れないが、子供時代に兄が殺されるフラッシュバックで映画は始まり、彼女がどうして活動家になったかが伺われる。彼女はロンドンの地下鉄爆破テロを試み、未遂で捕まってしまう。しかし彼女が護送されたのは警察ではなく機密諜報機関MI5の一室。家族のテロ活動の情報を提供するスパイとなれば25年の刑になるであろう爆破未遂事件の訴追を免除するという捜査官のマックの提案だった。

どちらの作品もおおむねプラスの評価を受けていますが、どちらかと言えば日本でも海外でも『東ベルリンから来た女』の方がやや評価は高いようです。そのせいかどうか、桜坂劇場でも『東ベルリンから来た女』の方が『シャドー・ダンサー』より上映期間が一週間長くなっています。でも自分としては、いつも天の邪鬼ではありますが、『シャドー・ダンサー』の方がはるかに面白いと感じました。

『東ベルリンから来た女』のプロットの構造を考えてみると、これが実にありきたりなのです。東ドイツの不自由な社会(政治体制)という面を捨象したとき、2つの物語要素があります。一つは主人公の女性が二人の男性のどちらを選ぶかという要素。もう一つは、ネタバレになるのでここでは曖昧にしか書きませんが、西の自由世界への逃亡の決行日におきた出来事に対する彼女の行動です。そしてこの後者を前者、つまり男性選択の物語にからめています。この作品を映画館で見ていて、映画半ばに一種の伏線といえるのかも知れないことが描かれていて、その時点で自分には結末が容易に予想できてしまいました。そう考えてみると、なるほど共産圏東ドイツの不自由な社会のあり方が描かれてはいますが、それはこのメロドラマの味付けでしかないと感じられてしまいます。2番目の物語要素はたしかに東ドイツ社会の問題を描いているかも知れません。しかしそれによってこうした社会を糾弾するというような視点はあってもごくわずかで、やはり物語を動かすのに使われているに過ぎないように思います。結局はニーナ・ホスの演技を見る楽しみだけが残りました。


では『シャドー・ダンサー』は?。こちらも北アイルランド紛争を描くというよりは、それを背景として作られたサスペンス物語だと思います。しかしバルバラでなくても誰でもよい一人物の物語を描いただけの『東ベルリンから来た女』に対して、『シャドー・ダンサー』ではアンドレア・ライズブロー演じるコレットという一人の特定の女性を描いています。少女時代に弟を殺されたという、ちょっと上手過ぎるフラッシュバックを冒頭に置いていること、そして捜査官マックとの関係や(ネタバレはしませんが)あのラスト。誰でもに置き換えられる人物ではなく、まぎれもないコレットという主人公を創造し得ていると思いました。


『東ベルリンから来た女』: IMDb  公式サイト  YouTube
『シャドー・ダンサー』: IMDb  公式サイト  YouTube



2013.04.18   
ラッコのチャーリー

2013/04/16

『愛、アムール』の予告編を見ながら

L'AMOUR = 愛の感覚の相違


飽きもせず毎日桜坂劇場通いをしていると、当然のことながら同じ映画の予告編を何度も見ることになる。その中に昨年(つまり現時点で最新)のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞作品、ミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』の予告編がある。桜坂劇場での公開は今月20日(今週土曜)からで、自分もまだ本編は見ていない。


この予告編、パジャマ姿のジャン=ルイ・トランティニャンが彼独特のあの声で「Il y a quelqu'un?」(誰かいるのか?)と言うところで始まり、やがてタルコフスキーの『惑星ソラリス』で有名なバッハのコラール前奏曲がピアノ版で静かに流れ始める。なんと素敵な導入部だろう!。不在らしき家に警察がドアを壊して入ってくるという不穏当な場面に続き、イザベル・ユペールが無人の家にゆっくりとした足取りで入ってくる。そして椅子に座った彼女が昔の幸せを語る。このユペールが実に良いのだが、そのセリフには次のような字幕がついていた。


 子供の頃を思い出したの
 二人の愛し合う声を盗み聞きしてた
 両親の愛の絆を確認できるから


昔は画面右横に縦書きで出た日本語字幕、今は画面下の横書きが主流だ。なので現在の詳しい規格はわからないが、縦書き字幕の場合、35mmフィルム1フィート(16コマ)に日本語3文字。つまり2秒(48コマ)あたり9文字とい制約がある。なのでこの字幕も上手く訳してあるがどうしてもやや言葉足らず。


Tout à l'heure quand je suis entrée, je me suis rappelé comment je vous écoutais toujours faire l'amour quand j'étais petite. Ça me donnait le sentiment que vous vous aimiez et on resterait toujours ensemble.

上手い翻訳ではないかも知れないが、ざっと以下のようなものになる。

さっき入ってきたとき、思い出したの。私がまだ小さかった頃、いつもお父さんとお母さんが愛し合う声を、私がどんな気持ちで聞いてたかを。お父さんとお母さんは愛し合っているんだと感じて、みんないつまでもずっと一緒なんだと思った。


上に「お父さんとお母さん」と訳した原文は vous(あなたたち)で、映画をまだ見ていないのでわからないが、五十歳の娘(ユペール)が八十歳の父(トランティニャン)に35年ぐらい前を述懐して話しているらしい。親に向かって「あなたたち」は日本語では不自然なので「お父さんとお母さん」とした。「いつもお父さんとお母さんが愛し合う声」の愛し合う(faire l'amour)というのは「抱き合っている」、もっと露骨に言えば「セックスしている」という意味であり、字幕はその辺を「盗み聞き」と巧みに意訳している。


この(当時はまだ小さかった)娘の感覚。そして五十歳になってそれをこうして父親に話している(らしい)図。日本では違和感があるだろうし、日本映画でこうしたシーン(セリフ)が描かれているのを見た記憶がない。この映画はオーストリア人が撮ったフランス映画と言ってよいのだろうが、フランス映画ではこうした例が他にもある。例えば『妻への恋文』。夫婦関係があまり上手くいってないのではなかとちょっと気がかりな娘、たぶん六~七歳の娘。久しぶりに家に泊まった父。いつも母と寝室を別にしているから朝その娘は気軽に母親の部屋のドアを開ける。すると両親が裸で一つベッドで眠っていた。少女は「あ、ごめんなさい。」と言って立ち去ると、走って兄のところに行って「ママとパパが一つベッドで寝ていた!。」と嬉しそうに報告する。両親が肉体的セックスをする姿を両親が愛し合っているという証しと受け取り、喜ぶべきものだと感じる感覚。どちらが良いとか言うのではなく、ここに日本人とフランス人の愛に関する文化の絶対的差異がある。日本映画では若い結婚前のカップルや、中年でも不倫カップルのベッドシーンはたくさん見られるけれど、既婚夫婦の日常のセックスが描かれることはほとんどない。


以上何度も何度もこの予告編を見て、その都度感じていることを書いてみた。ちなみにこの予告編、最後に「人生はかくも長く、素晴らしい。」というコピーが出るが、これは予告編ではやってはならないことだ。観る前から観客に映画の解釈を既定するような行為ははなはだ迷惑だ。



2013.04.16   
ラッコのチャーリー


2013/04/08

『ムーンライズ・キングダム』Moonrise Kingdom

Une brève critique en français au bas de la page.


原題:Moonrise Kingdom
監督:ウェス・アンダーソン
Wes Anderson (Wesley Anderson)
脚本:ウェス・アンダーソン、ロマン・コッポラ
Wesley Anderson, Roman Coppola
撮影:ロバート・D・イェーマン
2012 USA color 94min (ratio 1.85)
出演:ジャレッド・ギルマン、カーラ・ヘイワード、ブルース・ウィリス、エドワード・ノートン、ビル・マーレイ、フランシス・マクドーマンド、ティルダ・スウィントン、ジェイソン・シュワルツマン、ハーヴェイ・カイテル、ボブ・バラバン
Jared Gilman, Kara Hayward, Bruce Willis, Edward Norton, Bill Murray, Frances McDormand, Tilda Swinton, Jason Schwartzman, Harvey Keitel, Bob Balaban
2013.04.06 桜坂劇場ホールAにて


自分としてはかなりのヒット作品。監督がウェス・アンダーソンというのはちょとはあったけれど、あまり期待はしていなかった。『テッド』(IMDb)は人気だけれど、そんなのを観ている間にはこちらをオススメする。『テッド』は観ているときは楽しめるかも知れないが(だからそれはそれで良いのだが)、3日、一週間、一年もたてば何も残らない作品だと思う(特定の映画や映画館の宣伝や営業妨害をする意志はありません)。


この『ムーンライズ・キングダム』は言ってみれば2012年版『小さな恋のメロディ』(IMDb)。12歳のサムとスージーの初恋・純愛物語。1971年の『小さな恋のメロディ』は、実はその前年にスウェーデンのロイ・アンデション(アンダーソン)が撮った『スウェーデッシュ・ラブ・ストーリー』(IMDb)がヒントになっているのでは?、とボクは思っている。この『スウェーデッシュ・ラブ・ストーリー』は日本では短縮版『純愛日記』として『小さな恋のメロディ』と同時上映されたらしいけれど、ベルリン映画祭で金熊賞にノミネートされていた。が70年のベルリン映画祭はベトナムでの米兵によるレイプ殺人事件をテーマにした作品を審査委員長ジョージ・スティーヴンスがボイコットしたことで紛糾し、映画祭は中止になってしまった。奇しくもアンダーソンという同じ名前の監督がとったこの新しい初恋物語、時代設定は70年代の2本の作品よりさらに昔の1965年夏となっている。社会状況、性概念や子供をとりまく様々な環境が変わっている現代を時代設定としては、こういうお話は成り立ちにくいのだろう。


舞台はニューイングランド島。サムはボーイスカウトの合宿でこの島に夏に滞在し、スージーはこの島に住む弁護士夫婦ビショップ夫妻の長女。サムとスージーは一年前に教会で催された劇でスージーが出演し、サムがボーイスカウトで観に行ったときに出会い、それ以来文通を続けていた。サムは両親を失ってから里親に育てられているが、里親はサムにあまり関心はない。スージーの両親は会話としては仕事の話だけで、冷め切った夫婦。寝室のベッドも間にナイトテーブルを挟んだツインだ。サムとスージーはそんな乾き切った大人たちの世界にウンザリしている。ふたりの文通の内容はこのつまらない大人たちの世界から逃れるための駆け落ち逃亡計画。そしてふたりはそれを実行に移す。


この事件は小さな島の大人たちを振り回す。面白いのは当のふたり、そしてそれまではサムをバカにしていたスカウトの仲間といった子供たちが、責任や行動という「大人な」行動をとるのに対して、大人たちは翻弄され、しっかりと自分の責任を全うできないし、たわいのない口喧嘩をするばかりで、実に「子供」として描かれている逆転現象だ。大人たちの住む家をまるでドールハウスをそのまま大きくしたような家として描いているが、これはあたかも操り人形のごとくで実体・実存・生の欠如した大人を浮き彫りしているようだ。子供の方がいかに真剣に生きようとしているかという皮肉がたっぷり。コメディータッチの映画だけれど、コメディーの部分は大人が受け持つと言ってもよいかも知れない。大人たちはコミカルで、子供たちはシリアスなのだ。


結末は途中である程度予想もつくかも知れないありきたりのものだ。でもやはりいつもながら、つまり『小さな…』でも『スウェーディッシュ…』でも、映画初出演の主人公の子役のふたりがとっても瑞々しく魅力的だ。それを支えるようにハリウッドの大スターたちがコミカルな大人たちの役として豪華に登場している。『青少年のための管弦楽入門』などベンジャミン・ブリテンの曲をときにわざと大仰に流す音楽も良い。そんな中で曲種をがらっと変えて、若い(幼い?)ふたりを初めてキスに導くシーンで流されるフランソワーズ・アルディーの使い方も秀逸だ。



*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。

映画度:★★★★/5*

記事索引

2013.04.08   
ラッコのチャーリー



Un beau film qui raconte le premier amour d'un couple préadolescent (de 12 ans), joli comme les deux précédents des années 70, A Swedish Love Story (Une histoire d'amour suédoise) de Roy Andersson et Melody de Waris Hussein. Les adultes sont décrits comiques et ridiculisés, qui ne savent que de se démonter et de se disputer comme des enfants. Par contre les enfants prennent décision, responsable, et agissent selon ce qu'ils pensent juste et nécessaire. Le jeu de deux jeunes acteurs protagonistes est remarquable en nous donnant de la fraîcheur, appuyé par des grandes stars hollywoodiennes. L' utilisation de la musique de Benjamin Britten est ingénieux et aussi celle de Françoise Hardy. Le décor imitant la maison de poupée symbolise habilement le caractère enfantin et de marionnette des adultes. Un film à ne pas manquer, même si on peut manquer Ted.

(Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.)

(écrit par racquo)