2013/08/06

『桜並木の満開の下に』



Titre anglais:Cold Bloom
脚本・監督・編集:船橋淳
Écrit, réalisé et monté par Atsushi Funahashi
撮影:古谷幸一
Prise de vue:Kôichi Furuya
2012 Japon / color 119min
出演:臼田あさ美、三浦貴大、高橋洋
Avec:Asami Usuda, Takahiro Miura, Yô Takahashi
2013.08.04 桜坂劇場ホールBにて

桜坂劇場には毎日のように通っているので大抵の作品は本編を観る前に予告編を見ているし、チラシにも目を通しているのだけれど、この作品は珍しくほとんど前情報なしで観た。前もって知っていたのは桜坂劇場の会報 FunC にあった短い紹介文のみ。下に引用する。


理不尽な運命に翻弄される男女の物語:震災後の茨城県日立市を舞台に、突然の事故で最愛の夫を失いながらも、それを乗り越えようとするヒロインの心の葛藤を美しい桜並木を背景に描いたラブストーリー。小さな町工場で働く栞(シオリ)は結婚したばかりの同僚、研次との幸福な生活を夢見ていた。ある日、作業中の事故で研次が亡くなり、栞の生活は一変。栞は事故を起こした若い工員・工(タクミ)の謝罪を受け入れられない。だが、事故で経営的な危機に陥った工場を立て直すべく必死に働く工の姿を見て、栞の心は和らぎ始める(名前の読みは引用者が付加)。

自分流にこの紹介文を書き換えてみたい。

常識に囚われ過ぎることで翻弄される男女の物語:震災後の茨城県日立市を舞台に、突然の事故で愛する夫を失い、それを乗り越えようとするヒロインの心の葛藤を美しい桜並木を背景に描いたメロドラマ。小さな町工場で働く栞は同僚・研次と結婚して2年。幸せに暮らしていた。ある日、作業中の事故で研次が亡くなり、栞の生活は一変。栞は大きな罪はないものの事故の直接の引き金となってしまった若い工員・工の謝罪を受け入れようとしない。だが、事故で経営的な危機に陥った工場を立て直すべく必死に働く工の姿を見て、いつしか栞は工を愛するようになる。


見終わって気になって、家に帰って調べたのだけれど、チラシにも公式サイトにも触れられてないことがあった(もちろん見落としでなければ)。それはこの物語が、背景こそ変えられてはいるものの、1967年成瀬巳喜男の遺作『乱れ雲』そのままだということだ。これは隠れリメイク作品だったのだ。(1)夫の殺害者、と言ってもその人には罪はない男性(裁判で無罪とか)と相互恋愛感情を持つに至るヒロイン(旧作では加山雄三と司葉子)。(2)夫の理不尽な親によってヒロインが除籍されること。しかしながら現在の戸籍法には家制度はないので、新作ではこの点がやや理解に苦しむ。旧姓で新戸籍を作らされたか、元の親の戸籍に戻らされたという理解で良いのだろうか?。(3)ちなみに旧作では妊娠していたヒロインは中絶をするが、新作ではそろそろ子供を作ろうかということで、どちらも子供はいない。(4)加害者男性と被害者女性の禁断の(?)恋愛が成就するかも知れないという場面で、夫の死を彷彿させる事故現場に二人は遭遇する(交通事故やドラム缶事故)。(5)旧作で重要な役割を演じた鉄道の踏切が、新作でもちょっとだけ描かれる。その他内容ではなく描写の仕方も、夫の事故の場面は描かずに直接葬儀の場面に移る点など、実に似通っている。


40年以上前の日本を舞台としていることもあり、成瀬巳喜男の手にかかるとこの悲恋メロドラマも、特に最後の方の秀逸な心理描写により説得力を持つものとなった。しかしそのメロドラマを下敷きにして、2010年代、震災後の復興、不況、外国人労働者(中国人)、サービス残業、そういったものを背景として映画を作ろうとしたこと自体に無理があったのではないだろうか。


自分はこの作品の底にある、あるいはこの物語が前提とする考え方が大嫌いだ。映画の中で妻・栞に賠償金を払うのは事故の起きた取引先企業だ。安全を無視してドラム缶を積み上げ放置していたことが事故の原因だからだ。なのに栞が工を許すとか許さないとか、お門違いなことを平気で描く。もちろん栞の心情は十二分に理解は出来るけれど、それは栞が自分の中で処理すべき問題であって、それを工に転嫁すること自体がおかしなことなはずだ。もちろんそれは裏返しで工についても言える。自分が偶然にも直接の引き金となってしまった心情は理解出来るが、これも工が自分の中で処理すべき問題であって、栞に許しを乞うこと自体がおかしいのだ。謝罪に関連することはこのブログの他の記事でも書いているけれど、まず謝罪が必要だという発想そのものがおかしいのであり、それを当然の発想として助長するような映画は迷惑だ。そのような発想法を常識として日本人が持っていることが事実だとしても、それは変えていくべきことなはずなのだ。


そんな許すとか許さないとかいった話は別として、この映画で描かれた後半の栞、あるいはその演技では、栞の心はもう完全に工への愛に捕らえられている。だからその後の展開に説得力がない。最後の方での海の場面であれ、旅館での場面であれ、また類似事故に接したときでさえ、あるいは駅のホームであれ、工が無理矢理にでも栞をきつく抱きしめてしまえば話は終わり。そういうお話だ。だから別の言い方をすれば、腫れ物に触るがごとくおどおどしているだけで、女の心の機微を解さない不甲斐ない工ゆえに幸福を取り逃したカップルの物語と言えるのかも知れない。

映画度:★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.08.06   
ラッコのチャーリー



2013/08/05

『嘆きのピエタ』Pieta


Une brève critique en français au bas de la page.


原題 Titre original:피에타
Titre français et anglais:Pieta (Pietà)
脚本・監督・編集:キム・ギドク
Écrit, réalisé et monté par Kim Ki-duk (김기덕)
撮影:チョ・ヨンジク
Prise de vue:Cho Yeong-jik (조영직)
2012 South Korea / color 104min (ratio 1,85)
出演:チョ・ミンス、イ・ジョンジン、ウ・ギホン、カン・ウンジン、クォン・セイン
Avec:Jo Min-soo, Lee Jung-jin, Woo Gi-hong, Kang Eun-jin, Kwon Se-in
조민수, 이정진, 우기홍, 강은진, 권세인
2013.07.31 桜坂劇場ホールAにて

キム・ギドクの映画は嫌いではない。『鰐』から『悲夢』まで15本すべてを見ている。セルフ・ドキュメンタリー『アリラン』も見た。この『嘆きのピエタ』は2012年のMostraでは金獅子賞も取り、前評判も良かった。でも自分の見たKKDの16本の劇映画の中ではいちばんつまらなかった。『悲夢』よりもつまらないかも知れない。ただの、普通の、やや良くできた、と言った程度の作品だ。二十代の新人監督や、せいぜい三十代の監督の二作目、三作目の作品ならば、注目するべき才能として評価もしよう。扱われている世界や、主人公や、ストーリー等…が、一見特異でオリジナリティーがあるように見えるけれど、実はもの凄く陳腐で、常識的なのだ。


天涯孤独で親の顔も知らぬガンドのもとへ彼を捨てた母親だという女ミソンが現れる。最初は拒絶するガンドだけれど、やがて受け入れ、ガンドにとってかけがえのない母親となっていく。ネタバレになるので詳しくは書かないけれど、ミソンに「どうしてこんなに悲しいの?」と言わしめ、涙を流させるに至る設定はなかなか面白い。そのガンドとミソンを演じた2人の役者の演技もなかなか秀逸かも知れない。しかしそれを映画全体の中で生かし切れていない。全体のレベルはちょっと良く出来た土曜サスペンスドラマ。お金に関するお説教じみた講釈や、社会の変化に取り残された零細小工場経営者の貧困、社会の不正義、それと関連した都市化の問題、それらが嘘だとは言わないけれど、何の新しさもなければ、考察のレベルはあまりに幼稚だ。作品の内容的に各国での年齢レイティングがどうなっているかは知らないけれど、中学生・高校生向けにはちょうど良いかも知れない。


がっかり、期待外れのキム・ギドクだった。大衆に広く受け入れられ、理解も容易な作品ではなくてもよいから、キム・ギドクにはもっと尖った映画を作って欲しい。過去の作品のいくつかの要素を薄めて、薄めて作った作品。「目黒のさんま」と言ったところだろうか。骨抜きにされたお城での秋刀魚ではなく、隠亡焼きにされた目黒の秋刀魚が食べたかった。

映画度:★★★★/5*


*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.08.05   
ラッコのチャーリー


J'aime bien les films de Kim Ki-duk, j'ai vu tous ses 15 longs métrages de Crocodile à Dream (ce dernier avec une petite déception). Je suis même allé au cinéma voir son autoportrait/docummentaire Arirang. Et cette fois-ci avec cette Pieta (ou Pietà) KKD m'a bien déçu; médiocre! Si c'était le premier ou second long métrage d'un jeune cinéaste, j'apprécierai peut-être un peu plus, je remarquerai le nouveau talent arriver, mais pour un film du réalisateur de L'Île ou de Locataires ...


Kang-do se charge de recouvrer de l'argent d'un usurier. Il est impitoyable envers les débiteurs, dont la plupart sont des petits industriels de petites usines démodées et délaissées par le temps. Il vit seul et ne sait pas les visages de ses parents. Il est quelqu'un qui ne connaît pas l'amour. Un jour Mi-sun apparaît devant lui prétendant qu'elle est sa mère. Elle lui demande pardon de l'avoir abandonné dès sa naissance. Au début il la refuse. Elle continue de le suivre. Il commence à l'accepter. Et pour Kang-do elle devient quelqu'un (la mère) de qui il ne peut plus se passer. Naissance chez lui d'un sentiment d'affection ou d'amour. Je m'abstiens d'en écrire le détail pour ne pas spoiler, mais jusqu'à faire Mi-sun dire en larmes «Pourquoi si triste?» en regardant Kang-do. Cette intrigue est assez intéressante, Jo Min-soo et Lee Jung-jin jouent bien, cependant elle n'est pas du tout exploitée dans l'ensemble du film. Il y a le commentaire sur l'argent (par la bouche de Mi-sun), la pauvreté des petits industriels, l'injustice sociale, modernisation de la ville etc..., certes tout cela est vrai peut-être mais les considérations en sont trop naïves, démodées, ou puériles.

(Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.)

(écrit par racquo)



2013/07/20

『セレステ & ジェシー』Celeste & Jesse Forever


(セレステ ∞ ジェシー)

Une critique en français au bas de la page.

原題:Celeste & Jesse Forever
監督:リー・トランド・クリーガー
Réalisé par Lee Toland Krieger
脚本:ラシダ・ジョーンズ、ウィル・マコーマック
Écrit par Rashida Jones, Will McCormack
撮影:ダヴィッド・ランゼンバーグ
Photo: Davd Lanzenberg
2012 USA / color 92min (ratio 2.35)
出演:ラシダ・ジョーンズ、アンディ・サムバーグ、エマ・ロバーツ、イライジャ・ウッド
Avec Rashida Jones, Andy Samberg, Emma Roberts, Elijah Wood 
2013.07.15 桜坂劇場ホールBにて



まあまあの作品だとは思うのだけれど、映画としての作り全体はなんだかちょっとパッとしない。映画の始まりは良くって、なんだかわくわくと見ていて、だから先を期待するのだけれど、逆にだんだん失速していって、後半はとっても平凡なお話になり下がっていってしまった。


学生時代に恋に落ちて結婚したセレステ(♀)とジェシー(♂)。趣味、好み、ノリがぴったりの二人なのだけれど、結婚5~6年、三十代になって、セレステはメディア・コンサルティング会社を経営するバリバリのビジネスウーマン。一方のジェシーは売れないアーティストで学生時代の気ままな生活のまま。「永遠に親友でいられるように」とセレステ主導で離婚をすることに。で別居をしているのだけれど、彼女が建てた家の裏には別棟のジェシー用のアトリエがあって、彼はそこに住んでいるのだから別居と言っても目と鼻の先。ノリは合うし仲は良いから一緒に過ごすことは多いようだが、離婚と言うことでけじめとしてセックスはしないらしい(セレステの意志で)。正式な離婚を前提とした状態だからもちろんそれぞれが他の異性とつき合うのは自由というたてまえ。セレステはジェシーの新しい恋愛を応援さえしている。そんな別居期間中、3ヶ月前にジェシーはヴェロニカというベルギー女性と一度だけ一夜を共にしていて、その結果がガーン!と二人の行く末に大きな影響を及ぼしていく。


映画の最初の方から前ふりがあって、セレステは自分の考えだけが正しいと思っている独善女なのだけれど、そしてそのことは仕事で知り合った若い女性シンガーのライリーに「人より賢いと思っているのが致命的ね。」と指摘されてしまう。ちなみにこのライリーは劇中の役も、演じたエマ・ロバーツもとっても魅力的だった。性格はいいし、「大人になっても恋で悩むことなんてあるの?」とかセレステに訊いていたけれど、彼女の方がよっぽど人とか恋とかを解っていて、セレステとは違って自然体で生きている。


この映画はアメリカではたった4館からスタートした公開が586館まで拡大して大ヒットしたという。ブログ等での日本での評価もおおむね高く、★5つを満点とすれば★5~★4程度ではないだろうか?。でちょっとIMDbのユーザー評を見てみたのだけれど、これが面白い。全体の平均点は10点満点で6.5と比較的低い。そして年齢別の評価を見ると、他年代の平均がどれも6点台の中で、18歳未満の女の子の評だけが7.5と高い(次に高いのは18~29歳女性の6.7)。つまりこの映画は、あるいは主人公セレステは、まだ子供の女子の共感の対象だということだ。なるほどセレステはバリバリのキャリアウーマンで、仕事は出来るは、お金も稼ぐは、社会的地位が…、と現実的大人のようではあるけれど、こと人間とか恋愛という面での精神年齢は子供だとも感じられる。だからこの映画は「愛」というのとはほど遠い。物語後半の行動を見ていると、むしろ彼女が実のところ見下していたジェシーの方が大人だったと言える。「なかよく一緒に遊びましょ。でもセックスは抜きで。」しかもタテマエではなくホンネとしてはセレステはジェシーを独占しようとしている。「他の子と仲良くしちゃイヤよ。」そしてそれが上手くいかないと酒やハッパにはまり、ぶーたれて別の友人に対して悪態をつく。これってまさしく我がままな子供ではないだろうか?。そういうセレステの物語を描くことはかまわないけれど、しっかりと「彼女は子供だ」という視点が必要だと思う。



映画度:★★★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2013.07.20   
ラッコのチャーリー


Bon. Pas mal quand même. Surtout au commencement c'est excitant. Celeste et Jesse s'entendent bien, ils ont des goûts tout à fait communs. Ils vont divorcer, mais ils s'entendent bien et s'amusent ensemble. Cette sorte de relation est assez curieuse et agréable à voir. Mais à leur trentaine, elle, elle est devenue business-woman réussite et font carrière dans le trend-consulting dont elle dirige une compagnie; lui, il reste toujours un artiste (illustrateur) marginal, et vit comme s'il était étudiant. Quoiqu'elle soit heureuse de passer du temps avec lui, sur ce dernier point elle le croit lâche. Elle n'en est pas contente. Pas de revenu fixe, pas de position sociale, il ne mérite pas être son mari, ni futur père de son enfant. Alors elle décide de divorcer d'avec lui, pour mieux maintenir leur relation en tant que deux meilleurs amis inséparables. Mais bien qu'ils aillent divorcer, ils passent le temps ensemble, il s'amusent ensemble, sauf qu'ils ne font pas l'amour (malgré lui); séparation de corps. Cependant il vit dans un atelier indépendant bâti à côté de la maison où elle vit. Elle l'encourage même à établir une nouvelle relation avec une autre fille. Un jour Jesse rencontre dans une librairie (en présence de Celeste et leurs amis) Veronica, une jeune fille avec qui il avait passé une seul fois une nuit, il y a trois mois. Et la conséquence de cette nuit va bouleverser le lien entre Celeste et Jesse.

Les notes des spectateurs au site IMDb sont suggestives. Tandis que les spectatrices moins de 18 ans donnent 7,5 sur 10, suivi de 6,7 de celles de 18 à 29 ans, les autres ne donnent que 6 à 6 et demi. C'est à dire que ce sont les filles adolescentes qui sympathisent avec ce film ou avec son héroïne et non les adultes. «Jouons et s'amusons ensemble tous les deux. Mais sans faire l'amour.» Bien qu'elle recommande un nouvel amour à Jesse, en réalité Celeste veut l'accaparer. Elle est inquiète quand Jesse ne revient pas la nuit lorsqu'il est sorti avec une fille. Et quand elle est abandonnée, elle abuse de l'alcool, la drogue et comporte méchamment envers son amie. Qu'est-ce que c'est que ça? On peut dire une petite fille pas encore mûrie. À sa trentaine et malgré sa carrière d'une femme de business réussie. Certes on a le droit de dépeindre une personne de la sorte, mais le point de vue qu'elle soit une enfant serait nécessaire.


Les étoiles indiquées en haut (à la fin du texte en japonais) ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.

(écrit par racquo)



2013/06/12

『偽りなき者』La chasse

Il y a une critique en français au bas de la page.



原題:Jagten
aka : The Hunt, La chasse
監督:トマス・ヴィンターベア
Direted by Thomas Vinterberg
脚本:トマス・ヴィンターベア、トビアス・リンホルム
Screenplay by Thomas Vinterberg, Tobias Lindholm
撮影:シャートッテ・ブルース・クリステンセン
Cinematography : Charlotte Bruus Christensen
2012 Danmark color 115min (ratio 2,35)
出演:マッツ・ミケルセン、トマス・ボー・ランセン、アニカ・ヴィタコプ、ラセ・フォーゲルストラム
Cast : Mads Mikkelsen, Thomas Bo Larsen, Annika Wedderkopp, Lasse Fogelstrøm
公式サイト(予告編あり): http://itsuwarinaki-movie.com/



「商品として魅力があり消費者の評判や売れ行きは上々だけれど、品質は実はたいしたことのない製品」、これが(比喩的に)この作品に対するボクの感想だ。張り子の虎と言っても良いかも知れない。さっき Google で検索してこの映画に対する感想・評価を見てきたのだけれど、もちろんボクの探し方が不十分なのかも知れないが、どれもこれもこの映画を高く評価している。そんな作品に対してイチャモンをつけようというのだから勇気がいる。下手をすればこの映画の主人公のようにバッシングされかねない。だから最初にこれだけは言っておきたい。少女のちょっとした嘘により罪なき主人公がコミュニティーにおいて爪弾きになるというプロット自体には文句はないということを。


ではこの作品の根本的欠陥とは何か?。それは2つある。その2つは互いに関連したことだから実は1つと言っても良いが、便宜上2つに分けておく。その1は、ブログ等の多くの感想ではあまり触れられていないのだけれど、「リアリティーの欠如」。その2は「すべてが結果論で描かれているということ」だ。


この映画の舞台は、それがたとえ片田舎であるにしても、北欧の福祉国家デンマークで、時代は21世紀だ。戦前の日本であるとか、50年代のごりごりの保守主義のアメリカの片田舎が舞台ではない。ならば幼い子供がいかに嘘をつくものかというようなことは教育現場の人間なら身にしみて知っているはずだ。それが事件がおきて専門とされる、それもあろうことか「男性」の助っ人をまねき、園長と二人で幼い少女に詰め寄り、教師ルーカスに受けたとされる性的いたずらをクララに問いただす。このような状況自体が既にに非現実的だ。この場面を見ていて連想したのは、被害者・加害者という意味では逆の立場だが、えん罪における取調室という閉鎖空間での自白の強要の場面だ。その場から逃げるには大人の誘導尋問に素直に従った返答をすることが幼い子供に強要されている。教育現場でこんなことがあってはならないし、ましてや教育心理学や児童心理学を多少なりとも学んでいればそんなことはしない。もししたのならばそのこと自体を糾弾する映画にするべきだ。つまりはここのシーンはストーリーを成立させるための、あくまでも監督なりの独りよがりの創作でしかない。兄たちが iPad のポルノ映像を見せる数秒のカットにしてもあまりに安易すぎる。園長と「専門家」による詰問シーンで少女クララに言わせる内容を、リアリティーからではなく、映画のストーリーの要求上無理に挿入してクララに提供するシーンにしか見えない。


そして結果論的語法。いちばん解りやすいのは、映画終盤で突然「1年後」とテロップが出て、あたかもすべてが解決したかのように見せるが、その過程はまったく描かれていない。あれほどバッシングされていたルーカスに対して突然すべてが水に流されたように周囲が接する「何故」は重要なはずだ。その他前半部分も含め、ほとんどの「何故」や「過程」は描かれない。ルーカスはお人好しとして描かれてはいるものの、警察で何と反論して釈放されたのか?。ルーカスは園長なりにちゃんと釈明する機会は与えられたのか?。あるいは幼稚園での教師たちの、あるいは親たちとの協議で、どうして彼が実際にクララに性的虐待をしたと結論されたかも描かれない。園長は保護者会で突然「憂うべき事態が当幼稚園で起きてしまいました」と結果を語るのみだ。つまりは観客は監督に何があったかを見せられるのではなく、どうなったかの結果報告だけを押し付けられる。そしてこの結果報告の内容は、リアリティーではなく、監督にとってストーリー展開上必要な細工でしかない。「少女の嘘→世間のバッシング→一応の解決→それでも消えないレッテル」というストーリーがあり、それに上手く都合良く合うようにリアリティーをねじ曲げ、人間心理に対する思索もないままに事態の結果だけを積み重ねているだけなのだ。

ハネケ:セブンス・コンチネント(1989)

この映画の終盤に決定的に重要だと、少なくともボクには感じられた短い1~2秒のカットがあった。それはスーパーマーケットで買い物を断られて一悶着あり、怪我をして家に帰ったクリスマス・イヴのこと。ルーカスは背広を着込んでクリスマス・ミサの教会に乗り込もうと準備をしている。そこで、特別の必然性もないと思われるが、バスタブか何かに足をのせて靴の紐を結ぶショットがあった。それはミヒャエル・ハネケの『セブンス・コンチネント』に2度出てくるカットに構図までクリソツだ(ちなみにハネケの映画を良く知るシネフィルにとってはこの靴のカットは有名)。「ああ~、ヴィンターベアはハネケになりたかったのね!!!!」というのが正直な感想。なるほどいわれもないのに性的変質者として社会の蔑視の対象となるというのは、ミヒャエル・ハネケの作品テーマだったとしても不思議はない。だがテーマに対する思索の深さ、そのテーマを扱う上での練りに練られた脚本、そうした点でハネケには遠く及ばない。


この映画は、たまたまマッツ・ミケルセン(主人公)やアニカ・ヴィタコプ(少女)の演技が良かったから、見かけ上優れた映画作品に仕上がっている。だからこそカンヌ映画祭でのマッツ・ミケルセンの主演男優賞もうなづける。しかしこのテーマの映画に必要なのは、周囲の人々が「結果論的に」主人公ルーカスを迫害することになった事実を報告することではなく(これではたんに作られたニュースフィルムでしかない)、周囲の人々が何故に迫害をすることになっていくかの過程や、その個人および集団の人間心理のあり方を、描くというのでなくても考えさせる、あるいはハネケ流に観客につきつけることではないだろうか。敢えて採点すれば100点満点の50点。

映画度:★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2013.06.12   
ラッコのチャーリー



La plupart des critiques sur ce film sont positives, mais moi je ne peut pas l'apprécier du tout. Pourquoi «non» ? Puisque, au moins, j'en apprécie bien le thème. Il y a deux choses. D'abord, le manque de réalité. On est au Danemark du 21ème siècle. Même si ça soit un petit village en pleine campagne, on est dans un État scandinave de haute providence. Les instituteurs ou institutrices de la maternelle qui ont sûrement étudié, même peu, de la psychologie et de la pédagogie de l'enfant, doivent savoir comment les petits enfants mentent. Et d'ailleurs qu'est-ce que c'est que ça cet interrogatoire à la petite Klara par deux adultes, directrice et psychiatre masculin, avec l'intention déterminée? Cela me fait penser à un aveu forcé par la police dans une affaire criminelle de fausse accusation. Cela ne se fait pas. L'audition de la petite fille devrait être faite d'une autre manière beaucoup plus minutieuse. Et si cela avait été fait, le sujet à traiter dans le film serait plutôt cette absence de légitimité des dispositions.

Ensuite dans ce film tout est raconté à réflexion, c'est à dire aucun processus et l'effet seulement. Quand Lucas (le suspect) visite la maternelle pendant dite réclusion, les instituteurs sont rassemblés dans le bureau de la directrice et semblent faire une discussion. Qu'est-ce qu'ils parlent? On ne sait rien. Comment ils ont eu le résultat que Lucas est coupable? On ne sait rien, rien. Est-ce qu'ils ont entendu la justification de Lucas, c'est à dire est-ce qu'ils ont au moins donné l'occasion à Lucas de s'expliquer? On ne sait rien, rien, rien. Pourquoi il est libéré par la police et à quel titre? On ne sait rien, rien, rien, rien. Rien du tout. Il n'y a toujours que le résultat.

Il y a d'abord le courant de l'intrigue « MENSONGE de Klara ---› DÉNIGREMENT collectif ---› ARRANGEMENT en apparence ---› ÉTIQUETTE de perversité n'efface jamais », et tout est cuisiné et assaisonné pour soutenir cette intrigue, même en dénaturant la réalité. Et ne nous donnant aucun processus ni explication. Ou plutôt il faut dire qu'il n'en est pas possible, puisque toute intrigue est fausse et irréelle. Vers la fin du film, quand Lucas s'habille pour aller à la messe de Noël, il y avait un plan assez intéressant pour moi. Il noue le lacet de ses chaussures posant son pied sur le bord de la baignoire. Je dois avouer que je ne me souviens pas bien si c'était vraiment la baignoire ou autre chose, mais cependant ce plan de deux secondes se ressemble exactement à celui de Le septième continent de Michael Haneke. Pensant qu'il n'y ait aucune nécessité ici de dépeindre Lucas lacer ses chaussures, certes c'est un hommage à ce réalisateur autrichien ou une référence (il faut dire que le plan de lacer les chaussures est répété deux fois dans le film de Haneke et c'est un plan assez connu aux cinéphiles qui connaissent les œuvres de ce réalisateur). Aa....ah! j'ai bien compris ici que Thomas Vinterberg voulait faire un film comme Haneke. Le thème dénigrement collectif peut être sûrement celui de Haneke. C'est de bonnes intentions d'espérer devenir un deuxième Michael, mais pour cela, la réflexion de Thomas sur la psychologie humaine n'est pas suffisante. Ce qu'il faut décrire dans un film de ce thème, c'est de nous montrer  comment et par quelle psychologie ce dénigrement collectif commence à naître, et comment ça se répand jusqu'à détruire complètement la vie d'un innocent.

Heureusement ou plutôt malheureusement le jeu remarquable des acteurs, surtout de Lucas et de Klara, a réussi à donner à ce film une apparence d'un beau film. Pour cela Cannes a bien récompensé Mads Mikkelsen. Mais le film n'est qu' une actualité télévisée artificielle.

Michael Haneke : Le septième continent (1989)


(Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.)


(écrit par racquo)




2013/05/23

日本語についてちょっと




ハネケの『愛、アムール』の予告編を見ながら感じたことを書いた中で、娘が父親相手に話すときのフランス語の vous を「あなたたち」ではなく「お父さんとお母さん」と訳した。それを書いたとき、実は自分の中には日本語とフランス語の色々な相違点に関しての思いが過っていた。あまりに脱線し、長くなるので書かなかったのだけれど、そのことについて書いてみたい。

ちょっと自分の若き日のことを書かせていただくなら、高2や高3の頃、受験勉強はそっちのけで、森有正とプルーストばかり読んでいた。受験勉強が特に嫌いだったわけではないのだけれど、それよりこの2著者の読書の方が楽しかったのだ。森有正は高1か高2の時に現国の教科書で出会い、それ以来次から次へと読み耽った。森有正の文章の中に例えばトマス・ア・ケンピスの『キリストのまねび』が出てくればその岩波文庫版を買ってきて読む…と言った具合で、自分の思想形成の根本には森有正がある。

さてそんな森有正なのだけれど、彼がどこかに「日本語は西洋語的な意味での言語ではない」というようなことを書いていた。正確な文章は憶えていないけれど、もちろん今も所有している森氏の本を探せばどこかに書かれているはずだ。当時まだ若く、あるいは幼くさえあった自分の理解力ゆえの誤解をしているかも知れない。しかしそんなことはどちらでもよい。自分がどう理解し、それが今の自分の思想となっているかが問題なのだから。森氏は「日本語で『田中さんがいらっしゃいました』と言えるけれど、その『田中さん』を『彼』に置き換えて『彼がいらっしゃいました』とは言えない。」という例をあげる。「いらっしゃる」という尊敬語の動詞は主語として敬意を表す語しか取り得ないという分析も出来るだろう(チョムスキーの生成変形文法的ではどういう解釈になるかちょっと興味もある)。しかし森氏は面白い表現でこの言語的現象を説明する。日本語の「田中さん」というのは西洋語的な意味での「言語」ではなく、「田中さん」と言ったとたんに、実在の人物「田中さん」が「田中さん」という語の中に入ってきてしまう、というような説明だったと記憶している。

ここからはボク自身の解釈に基づいたパラフレーズだ。(英語やフランス語の場合)田中さんが存在したり、その人物が来たという事実があるとき、そのような事象の世界がまず一つあって、それとは別にMr. TanakaであるとかMr. Tanaka was coming.というような言語の世界がある。その2つの世界が、それぞれ一つの円の中に要素を書かれた集合のようなものとして存在し、その2つの世界の要素が写像のように矢印で対応しているというようなものなのだ。つまり事象の世界と言語の世界は別に存在している。そして事象世界の「田中さんが来た」という事象と言語世界の「Mr. Tanaka was coming.」という言語が、対応するものとして矢印で結ばれている。言語世界の中の規則に従って名詞「Mr. Tanaka」は代名詞の「He」に置き換えることが出来るから、「Mr. Tanaka was coming.」も「He was coming.」と置き換えることが出来る。しかし日本語ではこの2つの世界はそれぞれ完全には独立しておらず、互いに干渉をし合っている。だから単に言語世界のルールに従って「田中さん」を「彼」に置き換えることができない。それゆえに「彼がいらっしゃいました」とはならないのだ。つまり尊敬に値するような田中さんという実在の人物が、言語の「田中さん」と重なりあってしまっている。そしてその実在の人物は「彼」という代名詞には重ならない。人物自体が言葉の「田中さん」に入ってきてしまうという森氏の表現はこういうことではないか。

あまりに理屈っぽい表現になってしまったので書き方を変えよう。例えば科学を記述した本のように誰も情緒や人情を期待しない文では「水素は燃焼して水となる」で事足りる。しかしそこに人間が登場すると、2つの意味でやっかいなことが生じる。一つは発話者とその発話内容に登場する人物の関係性であり、もう一つは発話者とその話し相手である聞き手との関係性だ。発話者が平社員ならば「山田部長は出張で大阪にいらしてます」と言うだろうが、発話者が社長なら「山田は出張で大阪にいる」となる。発話者が同じ平社員であっても聞き手が自社ではなく他社の人物なら身内を遜って言うから「山田は出張で大阪に行っております」となる。発話者が同じ副社長であっても、部下には「大阪には山田部長を行かせるつもりだ」と言うだろうけれど、社長相手なら「大阪には山田部長を行かせるつもりです」と語尾が変わってくる。でも英語なら「Mr. Yamada is in Osaka by business trip.」とか「I am going to send Mr. Yamada to Osaka.」などとなり、英語は苦手なので正しくないかも知れないが、要するに誰が誰に言ってもほぼ同じ言葉となる。

これって単に敬語の話じゃないの?。そう、その通り。ふつう敬語と言われるのは尊敬語、謙譲語、丁寧語の3つだ。しかし自分としては敬語と敬語でない言葉に二分するのではなく、全部をひっくるめて敬語システムと考えたい。つまり尊敬語、謙譲語、丁寧語以外の言葉は「ゼロ敬語」とでも呼べ、敬語のシステムの一端を担っている。もちろんゼロ尊敬語、ゼロ謙譲語、ゼロ丁寧語という細分も可能だ。「田中さんがいらっしゃいました」は尊敬語+丁寧語。「田中さんがいらっしゃった」は尊敬語+ゼロ丁寧語。「田中が来た」はゼロ尊敬語+ゼロ丁寧語。「田中が来ました」はゼロ尊敬語+丁寧語。「田中さんにいただきました」は謙譲語+丁寧語。「田中にもらいました」はゼロ謙譲語+丁寧語…等々。こうして3×裏表2つの計6つの敬語を使い分けることで、発話者と田中氏との関係性や発話者と聞き手の関係性を明確にするのが敬語であり、これから逃れて日本語を使うことはほぼ不可能だ。この「逃れられない」という点を忘れないでいただきたい。

「お客様が昨日(サクジツ)お求めになられたこの本は…」というのと「お前がきのう買ってきたこの本は…」というのではずいぶんと印象が違う。例えばたぶん前者は書店に問い合わせにきた客に対する店員の言葉で、後者は親が子供に言う言葉だろう。でも英語にしてしまえばどちらも「The book which you bought yesterday...」になってしまう。それは「あなたがきのう買った本は…」でもいいけれど、とにかくどれかを選ばなければ発話出来ないのが日本語で、発話したその瞬間に敬語システムに従属させられてしまう。「逃れられない」と言ったのそういう意味だ。

これは実に面倒な事態ではないだろうか。学生の何人かが教師に不満があって話しに行ったとする。学生が教師に向かって「お前はこれが正しいと思ってるのかよ」とは普通言えない(昨今はこういうのもあるかも知れないが)。くだけてみても「先生はこれが正しいと思ってるんですか」ぐらいだろうか。これに対する教師は「君たちはそう言うが…」となる。立場が逆なら教師は「君らはこれが正しいと思っているのか」で、学生は「先生はそうおっしゃいますが…」となる。英語ならどちらの場合も「Do you think that this is right?」と「Although you say so...」で同じになるのではないか。それが日本語ではどちらのケースでも言語的に教師の方が学生より優位にある。たとえ学生と教師の間であっても、教師の方が間違っていれば学生が教師に文句を言うのは当然のことだ。それなのに教師の側は言語の敬語システムによって守られ、学生は不利な立場に置かれてしまう。あるいは逆の立場の例なら、教師の理不尽な言いがかりであっても、敬語システムによって教師に権威が与えられてしまう。

ではそうした社会や制度のあり方とそれを支える言語はどちらが先にあるかと言えば、もともとは制度があって言葉が出来たのだろうけれど、共時的に現在の状況で考えるならば、社会があってそれ合った言語が使われるだけではなく、同時にそうした言語が社会の維持に手を貸し、変化を困難なものにしている。高校の時の古文の教師は敬語が日本語にしかないことを日本人として誇りにしていたけれど、この言語システムは平安時代とかにできたもの、つまり千年以上前の社会に適合して出来たものであり、その「逃れられない」という性格ゆえにあるべき変化を阻害しているとしたら、はたして誇りになどして良いのだろうか。

総理記者会見というのがある。もう10年以上もテレビは見ない自分なので昨今の状況は知らないから、以下は自分の知っている15年前の状況の話ではある。総理記者会見に外国人記者は出席できない。外国人記者相手の記者会見は別に行われる。これは日本独自の制度だ。父はパリで日本のある報道機関の代表だったので、フランス政府だかどこだかの発行した正式な記者証を持っていて、フランス人やその他の国々の記者と一緒にド・ゴール大統領の記者会見にも出席できた。しかしニューヨーク・タイムズの記者もル・モンドの記者も日本の総理大臣の記者会見には出席できない。それは彼ら外国人記者が日本語ができないからではない。彼らの中には実に流暢な日本語を話す人もいる。

思うにそれは教師と学生の会見と同じなのだ。記者は「総理は・・・とお考えですか?」と尊敬語+丁寧語で質問する。そのような言葉遣いをすることから記者は「逃れられない」。結果として記者に対して優位・権威を持つ総理という関係性が構築(確認)されてしまう。ここにもし外国人記者がいたとすると、なるほど外国人記者も同じように尊敬語を使うことから逃れられないかも知れないが、もともと心性は英語なりフランス語だから、総理の優位に気がねして質問の内容をはばかることなどしない。記者に対する優位による甘え、あるいは総理と記者のある種のなれ合い、そうした総理の側に有利な状況が壊されることになってしまう。だから日本語(敬語システム)はこのような状況(制度)の維持を担っているわけだ。総理も日本人記者も英語がぺらぺらで、記者会見を英語でやったら、記者の質問の内容は日本語のときとは相当に変わってくることだろう。教師と学生、お客と店員、上司と部下、親と子、夫と妻、その他その他すべての人間関係あり方も同じだ。

さて最初のきっかけであったハネケの『愛、アムール』に戻ろう。娘が父親を相手に話すとき、父親と母親のことを指すのにフランス語の vous を「あなたたち」ではなく「お父さんとお母さん」と訳した。「あなたたち」でも意味は通じるけれど、普通こういう言い方はしないのだ。でも「お父さんとお母さん」と言ったとき、娘の親に対する敬意とまでは必ずしも言わないけれど、情緒的な親子の感情が言葉の中に入ってしまう。だから娘が親を客観視して感想を述べることにならない。もし「あなたたち」と親に向かって言ったら、なんて冷たい言い方をするのだろうと感じる人もいるだろう。冷たい、つまりは情緒を省いた客観性であり、対等性なのだ。ただ子供が親に向かって「お父さんは・・」ではなく「あなたはそういう親だったんです」と言えば、今現在の言語感覚では客観性・対等性を通り越して非難のニュアンスが込められてしまうのではないだろうか。


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2013.05.23   
ラッコのチャーリー

2013/05/20

赤信号を確認して道路を横断




昔、むかし、アテネフランセに小学生ながら通っていた頃、ペレ先生という方がおられました。調べてみるとフルネームはジャン=バティスト・ペレ(Jean-Baptiste Perret)先生で、今もご健在。エコール・プリモで教鞭をとられていらっしゃいます(同校のサイトにプロフィールが紹介されていますhttp://ecole.primots.com/teacher/index.html)。当時はもちろんまだお若く、学生に対してはなかなかの毒舌家で、意地悪なことを学生に言われることも多かった。それはもちろん悪意からではなく、そういうスタンス、スタイルだっただけで、たいへん良い先生でした。

そのペレ先生があるとき、どんなコンテクストだったかは憶えていないのですが、日本人とフランス人の歩行者の道路横断の仕方についてこんなことをおっしゃいました。「日本人は信号が青で道を渡るけれど、フランス人は赤で渡る。」ペレ先生はこの観察結果をお話しになっただけで、特にコメントはされませんでしたが、ここにはフランス人と日本人の実に深い行動様式の差が表れていると私は思っています。

「赤で渡る」というのは "車が来ていなければ" 「赤でも渡る」ということではない。これも日仏の差であり、これから書こうとしていることと無関係ではないが、そのことはまた後で触れる。現在は歩行者用の信号機やら、時差式信号機、右折の矢印、スクランブル交差点など、信号のスタイルも多様化したけれど、むかしは縦が青なら横は赤という単純な3色信号機がほとんどだった。そんな信号機のある交差点で道路を横断するとき、日本人は自分が進む方向の信号が「青」であることを確認して道を渡り、フランス人は自分が進む方向と交差する横向きの信号が「赤」なのを確認して道を渡るということだ。縦が青なら横は赤だから、状況としては日本人の行動もフランス人の行動も同じである。だから問題はその心性、判断の仕方の違いにある。

自分の進む方向の信号が青のときに横断するというのの背景には、システムへの信頼、あるいは交通マナーやその背後にある公安委員会や法に対する服従があり、いずれにせよ「自分の主体的判断」の欠如がある。では交差方向の信号が赤で渡るというのは何か。道路を渡るには横から来て自分を轢く車がいないことを確認するべきであり、横の信号機が赤なら車は止まるから安全であり、だから横断する。その行動の背後にあるのは「自分の主体的判断」なのだ。さっきも書いたようにどちらも状況として同じなのだけれど、だからと言って決して些細な差ではない。本質的な差異がここにはある。

そしてもちろん自分の判断で車が来ていないことを確認して渡るのだから、自分の進む方向の信号が青でも赤でも関係ないわけで、だから車さえ来ていなければ(進む方向の信号が)赤でも平気で道路を横断する。日本でも昨今は信号が赤でも道路を平気で渡る人が(自分を含め)増えたけれど、それをすると批判がましい目で見ている人は今でもかなりいる。それも当然。制度に対する不服従だから悪いこととして非難の対象になるわけだ。

今日こんなことを書こうとしたのには2つの理由があった。理由と言ってもこのブログのタイトルに「独り言」とあるように、感じたことを軽いノリで書いているにすぎないが。

一つ目は少し前に閉鎖・解体された久茂地公民館や、来年に迫る久茂地小学校の廃校・前島小学校との統合に対する反対運動に関してだ。こういう住民による反対運動はどこの世界にもあるだろうし、その反対が成果を得ることは稀なのかも知れない。そして例外的なケースとして日本でもこうした反対運動が実を結ぶ場合があることも知ってはいる。しかし大抵の場合は反対運動自体がマイナーな(つまり少数の人々の)行動であり、それが成功することは非常に稀だ。実際に実を結ばないまでも社会の(ある程度以上多数の市民の)真剣な議論の対象となることすら稀な気がする。

ブッシュ vs ゴアの米国大統領選挙などと比べれば、日本の選挙は、小選挙区制がどうの、一票の格差がどうのということではなく、定められた規定通りに選挙が実施されているという意味でははるかに公正だろう(アメリカの選挙には選挙監視団を送るべきかも--笑--)。しかし大多数の選挙民、つまりは市民・国民は、選んだら任せっきりにするという態度が主流なのではないだろうか?。それは官僚、つまり役人に対する意識も同じだ。一人ひとりの市民が自分の政治意識(あるいは自分の属する集団や階層や地方の利益)を実現してくれる代理人として政治家を選ぶ(役所に権限を与える)という意識(実践)が希薄なような気がする。だから反対運動をするはずの市民にも、それを受ける政治家や役人も、任せた以上任せっきり、任せられたからには好きにするという体質がある。つまり反対運動自体が市民の側から言えばあるはずのないことであり(なぜなら任せたのだから)、役所や政治家の側から見れば、反対運動があったからと言って決定をくつがえすというシステムは最初からないのだ。これはすなわち信号を赤で渡るか青で渡るかと同じ構図に、自分には見えて仕方がない。判断の主体が自分にあるとするか、それとも信号という権威に委ねて従うかということの差だ。

もう一つは、上に書いたこととは趣旨的には直接は関係ないことだけれど、道路の横断についてふだん不愉快に感じていること。ほぼ毎日だから週に10回とか15回とか横断する道路がある。一つの道路の上下線なのだけれど、上にモノレールの走る久茂地川を間に挟んでいるので、道路を渡るときはまず右からだけ車の来る一方通行の2車線道路を横断し、川の上に架かる橋(道路より広い)を渡ってから今度は左からだけ車の来る一方通行の2車線道路を横断することになる。橋は歩行者専用だから交差する車道はない。

曜日や時間帯にもよるのだけれど、ちょっと待つと車はまったく来ない状況となる。だから自分は歩行者用の押しボタン式信号のボタンをまず押さない。車が切れるのを待って横断する。車が切れそうにないとボタンを押すことも稀にあるが、そのときは信号が変わって歩行者用の信号が青になるのを待ってから渡る。仮に車が切れてもボタンを押した「責任上」、信号が変わるのを必ず待つ。ところがこういう人はまずいない。自分と同じようにボタンを押さない人は2割ぐらいいるが、その人も車が切れそうにないとボタンを押し、仮に信号が変わる前に車が切れると道路を横断してしまう。1割ぐらいの人は、これが正統派なのだろうけれど、押しボタンを押し、車が切れるとかに関係なく信号が変わるのを待ってから渡る。残りの7割ぐらいの人の行動は実に不快だ。車が来ているかどうかなどを見ることもせずに「まず」ボタンを押す。それから車の流れを見て車が来ていなければ道路を渡る。だからそんな人が渡り終わっていなくなってから車道の信号は赤に変わり、車は誰も横断者がいないのにいたずらに停止させられることになる。





2013.05.20   
ラッコのチャーリー


2013/05/19

映画『ホーリー・モーターズ』を見ながら




レオス・カラックスの13年ぶりの新作(長編)が桜坂劇場で3週間にわたって上映され、自分は初日、最終日と二度観ました。久々に見る映画力の強い作品でした。作品自体に関するレビューは、気が向いたら別に書くつもりですが、ここではちょっと思った別のことを書きます。

ヘアヌードやら、無修正やらと言われるようになって久しく、最近は映画(や写真)で女性のアンダーヘアのボカシやモザイクは見られなくなりました。余談ではありますが映画がフィルム上映だったむかし、映画での人体の性的部分へのボカシがどういう技術的処理でなされていたかは良く知りませんが、ボカシが入ると当該部分だけではなく画面全体の色調が変わってしまうのが著しく不快でした。そんな意味では最近のボカシはもっとスマートになされていて、良く見ていないと気付かないこともあるほどです。

Glissements progressifs du plaisir

ところであれはいつのことだったか、まだ学生の頃だから70年代末くらいで、ヘアヌード解禁などといわれるより以前のこと、アテネフランセでアラン・ロブ=グリエの監督作品特集が組まれたことがありました。その中で例えば『快楽の漸進的横滑り』(Glissements progressifs du plaisir, 1974)は、フランス大使館かどこかの提供プリントで、字幕も入っていなかったか英語字幕で、映像も無修正でした。

Le jeu avec le feu

最終日に上映されたのは『危険な戯れ』(Le jeu avec le feu, 1975)。この作品には前年1974年に女性向きソフトコア・ポルノとして大ヒットした『エマニエル夫人』の主演女優シルヴィア・クリステルが出ていて、日本の配給会社が二匹目のドジョウを狙って劇場公開を計画。しかし一見エロティックな映画ではあるものの、ロブ=グリエとしては『エマニエル夫人』のイメージを持つシルヴィア・クリステルをそのイメージとして用いただけで、公開したところで絶対に一般ウケするような作品ではありません。普通の映画観客にとってはわけのわからない、難解、チンプンカンプンな、前衛・芸術映画でしょう(しかし2011年には無修正ニューマスターDVDが50頁余りの詳細なブックレット入りで紀伊國屋書店から発売されています!!)。なので公開に至らずお蔵入りした作品なのですが、この夜アテネフランセで上映されたのはそのお蔵入りプリントで、日本語字幕入り&ヘアにはボカシでした。

Emmanuelle

この最終日には上映終了後に監督のロブ=グリエ氏の挨拶(講演)と観客との討議が催されました。氏も客席で観られていたのですが、彼が話したことで印象に残ったことがあります。それはボカシの問題についてでした。それは、性的な表現に対する検閲というのはある一つのイデオロギーからなされるものであり、共産国家や独裁国家で政治的に反体制的であるものに対してなされる検閲とまったく変わりはないということでした。

今回カラックスの『ホーリー・モーターズ』では、エヴァ・メンデスとメルドの地下での挿話で、ドニ・ラヴァンの股間にボカシが入っていました。近年公開される映画では女性のヘアのボカシは無くなりましたが、まだまだ男性の性器は映ることが稀です。記憶しているものではポール・バーホーベンの『ブラックブック』(2006)でたしかナチス将校のが映っていたような気がします。『ホーリー・モーターズ』のこのシーンはいわゆる性交シーンではありませんが、メルドの性器がエレクトしているというのは監督が意図したことだというのは確かでしょう。Wikipédiaフランス語版の「Holy Motors」の頁のストーリー要約ではこの部分について「彼(メルド)は勃起した姿で美女の膝に頭を載せ眠りにつき、一方美女は古いアメリカの子守唄を彼に歌いきかせる」とあります。

今回のこのボカシを配給会社がどういう経緯で入れたかは知りません。しかしそれがいかなる意図で入れられたにせよ我々には表現の自由はこの国ではないといことです。聖母マリアとイエスのような図像での子供のようなメルドの姿を見せたいという余計な配慮が配給会社にあったのならば(その方が大多数の観客に対する印象が良いだろうという意味=商業的に有利)、それは原作の改変に他なりません。隅から隅まではまだ読んでいませんがプログラムにもフランス語版Wikipédiaのようにはこのことは書かれていないようです。仮に観客の側にもそういう潜在的要請があるとするならば、すなわちここではメルドの勃起した性器など見たくないということですが、それはカラックスの表現を受け止める用意がないといことです。とにかく、表現者(ここではカラックス監督)が表現したことを、誰かの意図で改変・削除されることなくその表現のままで見られるようになって欲しいと思います。長尺の作品をカットして、例えば150分の作品を120分に短縮して公開することは、これも嬉しいことではありませんが商業上必要な場合もあるかも知れません。しかしボカシというのは時間的短縮ではなく内容的改変です。

ちなみに現在はインターネットの時代。Googleの画像検索を「Holy Motors」と欧文ですればこのシーンの静止画像が見つかります。また現時点ではYouTubeでこのメルドの挿話の全体が無修正で見られます。興味のある方はそれらをご覧下さい。






2013.05.19   
ラッコのチャーリー

2013/04/18

『東ベルリンから来た女』と『シャドー・ダンサー』




2本のヨーロッパ映画がほぼ同時に桜坂劇場で上映されています。ドイツ映画『東ベルリンから来た女』とイギリス映画『シャドー・ダンサー』です。この2本はまったく異なった内容の作品ではあるのですが、印象としてどこか似た面を持っていて、劇場のスタッフとおしゃべりしても「こっちは面白いけれど、こっちは退屈だった。」などと2本は比べられる同種作品の体があります。どちらもヨーロッパ映画であること。女性が主人公であること。政治がらみのサスペンスものであること。1本は冒頭で、他の1本は最後でという違いはあるものの、どちらも主人公が重大な選択に迫られるということ。どちらも70年前の例えばナチスの時代を描いているのではなく、ここ20~30年という比較的近い過去を描いていること。そんな点が共通点かも知れません。どちらも映画としては楽しませてもらいました。その最大の功績はそれぞれの主演女優ニーナ・ホスとアンドレア・ライズブローにあるのですが。

さてまず『東ベルリンから来た女』ですが、ベルリンの壁崩壊前、ドイツ統一前、つまり東ドイツが不自由な共産圏国家であった1980年の物語。首都(東)ベルリンの大病院勤務だった女性エリート医師バルバラが辺鄙は田舎の小さな小児病院に左遷されてきます。どうやら西ドイツへの移住を申請か計画かしたらしい。刑務所にも入れられていたとかいうセリフもあったような気もします。今もシュタージ(秘密警察)の監視のもとに置かれていて、家宅捜索などもときどき受けています。彼女には時々東ドイツに商用か何かで来る西ドイツに住む恋人がいます。その恋人の手引きでバルバラは密かに西側自由世界に逃亡をしようとしていて、その決行日はだんだん近づいています。彼女は小児病院で日々勤務するうち、一方では「もしやシュタージのスパイかも知れない」という疑心暗鬼はあるものの、主任医師の誠実な姿に尊敬の念を感じるようになり、心惹かれるものもあります。そんな彼女が迫られるのは逃亡して西の男を選ぶべきか、留まって東の男を選ぶかというもので、もちろんそれには西の自由な世界で暮らすか、東の不自由な暮らしを受け入れるかという選択が重なっています。そこにある患者とのことが関わるのですが、最後に彼女の下した決断とは?、という物語です。


2本目はイギリス作品の『シャドー・ダンサー』。北アイルランド・ベルファストに小学生の息子と暮らすコレット。一緒に暮らす母や兄弟はすべてIRA派であり、活動をしている。コレットは独立して一人で行動するテロリストと言っても良いかも知れないが、子供時代に兄が殺されるフラッシュバックで映画は始まり、彼女がどうして活動家になったかが伺われる。彼女はロンドンの地下鉄爆破テロを試み、未遂で捕まってしまう。しかし彼女が護送されたのは警察ではなく機密諜報機関MI5の一室。家族のテロ活動の情報を提供するスパイとなれば25年の刑になるであろう爆破未遂事件の訴追を免除するという捜査官のマックの提案だった。

どちらの作品もおおむねプラスの評価を受けていますが、どちらかと言えば日本でも海外でも『東ベルリンから来た女』の方がやや評価は高いようです。そのせいかどうか、桜坂劇場でも『東ベルリンから来た女』の方が『シャドー・ダンサー』より上映期間が一週間長くなっています。でも自分としては、いつも天の邪鬼ではありますが、『シャドー・ダンサー』の方がはるかに面白いと感じました。

『東ベルリンから来た女』のプロットの構造を考えてみると、これが実にありきたりなのです。東ドイツの不自由な社会(政治体制)という面を捨象したとき、2つの物語要素があります。一つは主人公の女性が二人の男性のどちらを選ぶかという要素。もう一つは、ネタバレになるのでここでは曖昧にしか書きませんが、西の自由世界への逃亡の決行日におきた出来事に対する彼女の行動です。そしてこの後者を前者、つまり男性選択の物語にからめています。この作品を映画館で見ていて、映画半ばに一種の伏線といえるのかも知れないことが描かれていて、その時点で自分には結末が容易に予想できてしまいました。そう考えてみると、なるほど共産圏東ドイツの不自由な社会のあり方が描かれてはいますが、それはこのメロドラマの味付けでしかないと感じられてしまいます。2番目の物語要素はたしかに東ドイツ社会の問題を描いているかも知れません。しかしそれによってこうした社会を糾弾するというような視点はあってもごくわずかで、やはり物語を動かすのに使われているに過ぎないように思います。結局はニーナ・ホスの演技を見る楽しみだけが残りました。


では『シャドー・ダンサー』は?。こちらも北アイルランド紛争を描くというよりは、それを背景として作られたサスペンス物語だと思います。しかしバルバラでなくても誰でもよい一人物の物語を描いただけの『東ベルリンから来た女』に対して、『シャドー・ダンサー』ではアンドレア・ライズブロー演じるコレットという一人の特定の女性を描いています。少女時代に弟を殺されたという、ちょっと上手過ぎるフラッシュバックを冒頭に置いていること、そして捜査官マックとの関係や(ネタバレはしませんが)あのラスト。誰でもに置き換えられる人物ではなく、まぎれもないコレットという主人公を創造し得ていると思いました。


『東ベルリンから来た女』: IMDb  公式サイト  YouTube
『シャドー・ダンサー』: IMDb  公式サイト  YouTube



2013.04.18   
ラッコのチャーリー