昔、むかし、アテネフランセに小学生ながら通っていた頃、ペレ先生という方がおられました。調べてみるとフルネームはジャン=バティスト・ペレ(Jean-Baptiste Perret)先生で、今もご健在。エコール・プリモで教鞭をとられていらっしゃいます(同校のサイトにプロフィールが紹介されていますhttp://ecole.primots.com/teacher/index.html)。当時はもちろんまだお若く、学生に対してはなかなかの毒舌家で、意地悪なことを学生に言われることも多かった。それはもちろん悪意からではなく、そういうスタンス、スタイルだっただけで、たいへん良い先生でした。
そのペレ先生があるとき、どんなコンテクストだったかは憶えていないのですが、日本人とフランス人の歩行者の道路横断の仕方についてこんなことをおっしゃいました。「日本人は信号が青で道を渡るけれど、フランス人は赤で渡る。」ペレ先生はこの観察結果をお話しになっただけで、特にコメントはされませんでしたが、ここにはフランス人と日本人の実に深い行動様式の差が表れていると私は思っています。
「赤で渡る」というのは "車が来ていなければ" 「赤でも渡る」ということではない。これも日仏の差であり、これから書こうとしていることと無関係ではないが、そのことはまた後で触れる。現在は歩行者用の信号機やら、時差式信号機、右折の矢印、スクランブル交差点など、信号のスタイルも多様化したけれど、むかしは縦が青なら横は赤という単純な3色信号機がほとんどだった。そんな信号機のある交差点で道路を横断するとき、日本人は自分が進む方向の信号が「青」であることを確認して道を渡り、フランス人は自分が進む方向と交差する横向きの信号が「赤」なのを確認して道を渡るということだ。縦が青なら横は赤だから、状況としては日本人の行動もフランス人の行動も同じである。だから問題はその心性、判断の仕方の違いにある。
自分の進む方向の信号が青のときに横断するというのの背景には、システムへの信頼、あるいは交通マナーやその背後にある公安委員会や法に対する服従があり、いずれにせよ「自分の主体的判断」の欠如がある。では交差方向の信号が赤で渡るというのは何か。道路を渡るには横から来て自分を轢く車がいないことを確認するべきであり、横の信号機が赤なら車は止まるから安全であり、だから横断する。その行動の背後にあるのは「自分の主体的判断」なのだ。さっきも書いたようにどちらも状況として同じなのだけれど、だからと言って決して些細な差ではない。本質的な差異がここにはある。
そしてもちろん自分の判断で車が来ていないことを確認して渡るのだから、自分の進む方向の信号が青でも赤でも関係ないわけで、だから車さえ来ていなければ(進む方向の信号が)赤でも平気で道路を横断する。日本でも昨今は信号が赤でも道路を平気で渡る人が(自分を含め)増えたけれど、それをすると批判がましい目で見ている人は今でもかなりいる。それも当然。制度に対する不服従だから悪いこととして非難の対象になるわけだ。
今日こんなことを書こうとしたのには2つの理由があった。理由と言ってもこのブログのタイトルに「独り言」とあるように、感じたことを軽いノリで書いているにすぎないが。
一つ目は少し前に閉鎖・解体された久茂地公民館や、来年に迫る久茂地小学校の廃校・前島小学校との統合に対する反対運動に関してだ。こういう住民による反対運動はどこの世界にもあるだろうし、その反対が成果を得ることは稀なのかも知れない。そして例外的なケースとして日本でもこうした反対運動が実を結ぶ場合があることも知ってはいる。しかし大抵の場合は反対運動自体がマイナーな(つまり少数の人々の)行動であり、それが成功することは非常に稀だ。実際に実を結ばないまでも社会の(ある程度以上多数の市民の)真剣な議論の対象となることすら稀な気がする。
ブッシュ vs ゴアの米国大統領選挙などと比べれば、日本の選挙は、小選挙区制がどうの、一票の格差がどうのということではなく、定められた規定通りに選挙が実施されているという意味でははるかに公正だろう(アメリカの選挙には選挙監視団を送るべきかも--笑--)。しかし大多数の選挙民、つまりは市民・国民は、選んだら任せっきりにするという態度が主流なのではないだろうか?。それは官僚、つまり役人に対する意識も同じだ。一人ひとりの市民が自分の政治意識(あるいは自分の属する集団や階層や地方の利益)を実現してくれる代理人として政治家を選ぶ(役所に権限を与える)という意識(実践)が希薄なような気がする。だから反対運動をするはずの市民にも、それを受ける政治家や役人も、任せた以上任せっきり、任せられたからには好きにするという体質がある。つまり反対運動自体が市民の側から言えばあるはずのないことであり(なぜなら任せたのだから)、役所や政治家の側から見れば、反対運動があったからと言って決定をくつがえすというシステムは最初からないのだ。これはすなわち信号を赤で渡るか青で渡るかと同じ構図に、自分には見えて仕方がない。判断の主体が自分にあるとするか、それとも信号という権威に委ねて従うかということの差だ。
もう一つは、上に書いたこととは趣旨的には直接は関係ないことだけれど、道路の横断についてふだん不愉快に感じていること。ほぼ毎日だから週に10回とか15回とか横断する道路がある。一つの道路の上下線なのだけれど、上にモノレールの走る久茂地川を間に挟んでいるので、道路を渡るときはまず右からだけ車の来る一方通行の2車線道路を横断し、川の上に架かる橋(道路より広い)を渡ってから今度は左からだけ車の来る一方通行の2車線道路を横断することになる。橋は歩行者専用だから交差する車道はない。
曜日や時間帯にもよるのだけれど、ちょっと待つと車はまったく来ない状況となる。だから自分は歩行者用の押しボタン式信号のボタンをまず押さない。車が切れるのを待って横断する。車が切れそうにないとボタンを押すことも稀にあるが、そのときは信号が変わって歩行者用の信号が青になるのを待ってから渡る。仮に車が切れてもボタンを押した「責任上」、信号が変わるのを必ず待つ。ところがこういう人はまずいない。自分と同じようにボタンを押さない人は2割ぐらいいるが、その人も車が切れそうにないとボタンを押し、仮に信号が変わる前に車が切れると道路を横断してしまう。1割ぐらいの人は、これが正統派なのだろうけれど、押しボタンを押し、車が切れるとかに関係なく信号が変わるのを待ってから渡る。残りの7割ぐらいの人の行動は実に不快だ。車が来ているかどうかなどを見ることもせずに「まず」ボタンを押す。それから車の流れを見て車が来ていなければ道路を渡る。だからそんな人が渡り終わっていなくなってから車道の信号は赤に変わり、車は誰も横断者がいないのにいたずらに停止させられることになる。
2013.05.20
ラッコのチャーリー
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