ハネケの『愛、アムール』の予告編を見ながら感じたことを書いた中で、娘が父親相手に話すときのフランス語の vous を「あなたたち」ではなく「お父さんとお母さん」と訳した。それを書いたとき、実は自分の中には日本語とフランス語の色々な相違点に関しての思いが過っていた。あまりに脱線し、長くなるので書かなかったのだけれど、そのことについて書いてみたい。
ちょっと自分の若き日のことを書かせていただくなら、高2や高3の頃、受験勉強はそっちのけで、森有正とプルーストばかり読んでいた。受験勉強が特に嫌いだったわけではないのだけれど、それよりこの2著者の読書の方が楽しかったのだ。森有正は高1か高2の時に現国の教科書で出会い、それ以来次から次へと読み耽った。森有正の文章の中に例えばトマス・ア・ケンピスの『キリストのまねび』が出てくればその岩波文庫版を買ってきて読む…と言った具合で、自分の思想形成の根本には森有正がある。
さてそんな森有正なのだけれど、彼がどこかに「日本語は西洋語的な意味での言語ではない」というようなことを書いていた。正確な文章は憶えていないけれど、もちろん今も所有している森氏の本を探せばどこかに書かれているはずだ。当時まだ若く、あるいは幼くさえあった自分の理解力ゆえの誤解をしているかも知れない。しかしそんなことはどちらでもよい。自分がどう理解し、それが今の自分の思想となっているかが問題なのだから。森氏は「日本語で『田中さんがいらっしゃいました』と言えるけれど、その『田中さん』を『彼』に置き換えて『彼がいらっしゃいました』とは言えない。」という例をあげる。「いらっしゃる」という尊敬語の動詞は主語として敬意を表す語しか取り得ないという分析も出来るだろう(チョムスキーの生成変形文法的ではどういう解釈になるかちょっと興味もある)。しかし森氏は面白い表現でこの言語的現象を説明する。日本語の「田中さん」というのは西洋語的な意味での「言語」ではなく、「田中さん」と言ったとたんに、実在の人物「田中さん」が「田中さん」という語の中に入ってきてしまう、というような説明だったと記憶している。
ここからはボク自身の解釈に基づいたパラフレーズだ。(英語やフランス語の場合)田中さんが存在したり、その人物が来たという事実があるとき、そのような事象の世界がまず一つあって、それとは別にMr. TanakaであるとかMr. Tanaka was coming.というような言語の世界がある。その2つの世界が、それぞれ一つの円の中に要素を書かれた集合のようなものとして存在し、その2つの世界の要素が写像のように矢印で対応しているというようなものなのだ。つまり事象の世界と言語の世界は別に存在している。そして事象世界の「田中さんが来た」という事象と言語世界の「Mr. Tanaka was coming.」という言語が、対応するものとして矢印で結ばれている。言語世界の中の規則に従って名詞「Mr. Tanaka」は代名詞の「He」に置き換えることが出来るから、「Mr. Tanaka was coming.」も「He was coming.」と置き換えることが出来る。しかし日本語ではこの2つの世界はそれぞれ完全には独立しておらず、互いに干渉をし合っている。だから単に言語世界のルールに従って「田中さん」を「彼」に置き換えることができない。それゆえに「彼がいらっしゃいました」とはならないのだ。つまり尊敬に値するような田中さんという実在の人物が、言語の「田中さん」と重なりあってしまっている。そしてその実在の人物は「彼」という代名詞には重ならない。人物自体が言葉の「田中さん」に入ってきてしまうという森氏の表現はこういうことではないか。
あまりに理屈っぽい表現になってしまったので書き方を変えよう。例えば科学を記述した本のように誰も情緒や人情を期待しない文では「水素は燃焼して水となる」で事足りる。しかしそこに人間が登場すると、2つの意味でやっかいなことが生じる。一つは発話者とその発話内容に登場する人物の関係性であり、もう一つは発話者とその話し相手である聞き手との関係性だ。発話者が平社員ならば「山田部長は出張で大阪にいらしてます」と言うだろうが、発話者が社長なら「山田は出張で大阪にいる」となる。発話者が同じ平社員であっても聞き手が自社ではなく他社の人物なら身内を遜って言うから「山田は出張で大阪に行っております」となる。発話者が同じ副社長であっても、部下には「大阪には山田部長を行かせるつもりだ」と言うだろうけれど、社長相手なら「大阪には山田部長を行かせるつもりです」と語尾が変わってくる。でも英語なら「Mr. Yamada is in Osaka by business trip.」とか「I am going to send Mr. Yamada to Osaka.」などとなり、英語は苦手なので正しくないかも知れないが、要するに誰が誰に言ってもほぼ同じ言葉となる。
これって単に敬語の話じゃないの?。そう、その通り。ふつう敬語と言われるのは尊敬語、謙譲語、丁寧語の3つだ。しかし自分としては敬語と敬語でない言葉に二分するのではなく、全部をひっくるめて敬語システムと考えたい。つまり尊敬語、謙譲語、丁寧語以外の言葉は「ゼロ敬語」とでも呼べ、敬語のシステムの一端を担っている。もちろんゼロ尊敬語、ゼロ謙譲語、ゼロ丁寧語という細分も可能だ。「田中さんがいらっしゃいました」は尊敬語+丁寧語。「田中さんがいらっしゃった」は尊敬語+ゼロ丁寧語。「田中が来た」はゼロ尊敬語+ゼロ丁寧語。「田中が来ました」はゼロ尊敬語+丁寧語。「田中さんにいただきました」は謙譲語+丁寧語。「田中にもらいました」はゼロ謙譲語+丁寧語…等々。こうして3×裏表2つの計6つの敬語を使い分けることで、発話者と田中氏との関係性や発話者と聞き手の関係性を明確にするのが敬語であり、これから逃れて日本語を使うことはほぼ不可能だ。この「逃れられない」という点を忘れないでいただきたい。
「お客様が昨日(サクジツ)お求めになられたこの本は…」というのと「お前がきのう買ってきたこの本は…」というのではずいぶんと印象が違う。例えばたぶん前者は書店に問い合わせにきた客に対する店員の言葉で、後者は親が子供に言う言葉だろう。でも英語にしてしまえばどちらも「The book which you bought yesterday...」になってしまう。それは「あなたがきのう買った本は…」でもいいけれど、とにかくどれかを選ばなければ発話出来ないのが日本語で、発話したその瞬間に敬語システムに従属させられてしまう。「逃れられない」と言ったのそういう意味だ。
これは実に面倒な事態ではないだろうか。学生の何人かが教師に不満があって話しに行ったとする。学生が教師に向かって「お前はこれが正しいと思ってるのかよ」とは普通言えない(昨今はこういうのもあるかも知れないが)。くだけてみても「先生はこれが正しいと思ってるんですか」ぐらいだろうか。これに対する教師は「君たちはそう言うが…」となる。立場が逆なら教師は「君らはこれが正しいと思っているのか」で、学生は「先生はそうおっしゃいますが…」となる。英語ならどちらの場合も「Do you think that this is right?」と「Although you say so...」で同じになるのではないか。それが日本語ではどちらのケースでも言語的に教師の方が学生より優位にある。たとえ学生と教師の間であっても、教師の方が間違っていれば学生が教師に文句を言うのは当然のことだ。それなのに教師の側は言語の敬語システムによって守られ、学生は不利な立場に置かれてしまう。あるいは逆の立場の例なら、教師の理不尽な言いがかりであっても、敬語システムによって教師に権威が与えられてしまう。
ではそうした社会や制度のあり方とそれを支える言語はどちらが先にあるかと言えば、もともとは制度があって言葉が出来たのだろうけれど、共時的に現在の状況で考えるならば、社会があってそれ合った言語が使われるだけではなく、同時にそうした言語が社会の維持に手を貸し、変化を困難なものにしている。高校の時の古文の教師は敬語が日本語にしかないことを日本人として誇りにしていたけれど、この言語システムは平安時代とかにできたもの、つまり千年以上前の社会に適合して出来たものであり、その「逃れられない」という性格ゆえにあるべき変化を阻害しているとしたら、はたして誇りになどして良いのだろうか。
総理記者会見というのがある。もう10年以上もテレビは見ない自分なので昨今の状況は知らないから、以下は自分の知っている15年前の状況の話ではある。総理記者会見に外国人記者は出席できない。外国人記者相手の記者会見は別に行われる。これは日本独自の制度だ。父はパリで日本のある報道機関の代表だったので、フランス政府だかどこだかの発行した正式な記者証を持っていて、フランス人やその他の国々の記者と一緒にド・ゴール大統領の記者会見にも出席できた。しかしニューヨーク・タイムズの記者もル・モンドの記者も日本の総理大臣の記者会見には出席できない。それは彼ら外国人記者が日本語ができないからではない。彼らの中には実に流暢な日本語を話す人もいる。
思うにそれは教師と学生の会見と同じなのだ。記者は「総理は・・・とお考えですか?」と尊敬語+丁寧語で質問する。そのような言葉遣いをすることから記者は「逃れられない」。結果として記者に対して優位・権威を持つ総理という関係性が構築(確認)されてしまう。ここにもし外国人記者がいたとすると、なるほど外国人記者も同じように尊敬語を使うことから逃れられないかも知れないが、もともと心性は英語なりフランス語だから、総理の優位に気がねして質問の内容をはばかることなどしない。記者に対する優位による甘え、あるいは総理と記者のある種のなれ合い、そうした総理の側に有利な状況が壊されることになってしまう。だから日本語(敬語システム)はこのような状況(制度)の維持を担っているわけだ。総理も日本人記者も英語がぺらぺらで、記者会見を英語でやったら、記者の質問の内容は日本語のときとは相当に変わってくることだろう。教師と学生、お客と店員、上司と部下、親と子、夫と妻、その他その他すべての人間関係あり方も同じだ。
さて最初のきっかけであったハネケの『愛、アムール』に戻ろう。娘が父親を相手に話すとき、父親と母親のことを指すのにフランス語の vous を「あなたたち」ではなく「お父さんとお母さん」と訳した。「あなたたち」でも意味は通じるけれど、普通こういう言い方はしないのだ。でも「お父さんとお母さん」と言ったとき、娘の親に対する敬意とまでは必ずしも言わないけれど、情緒的な親子の感情が言葉の中に入ってしまう。だから娘が親を客観視して感想を述べることにならない。もし「あなたたち」と親に向かって言ったら、なんて冷たい言い方をするのだろうと感じる人もいるだろう。冷たい、つまりは情緒を省いた客観性であり、対等性なのだ。ただ子供が親に向かって「お父さんは・・」ではなく「あなたはそういう親だったんです」と言えば、今現在の言語感覚では客観性・対等性を通り越して非難のニュアンスが込められてしまうのではないだろうか。
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