2014/11/18

海を感じる時 Umi wo kanjiru toki



Il y a une brève introduction en français sous le texte en japonais.



原題 Titre original : 海を感じる時 Umi wo kanjiru toki
(qui veut dire littéralement "Quand je sens la mer")
Réalisé par Hiroshi Ando
Écrit par Haruhiko Arai
d'après le roman éponyme de Kei Nakazawa
Prise de vue : Kazuhiro Suzuki
Avec:Yui Ichikawa, Sôsuke Ikematsu
2014 Japon / color 118min (ratio 1,85)
監督:安藤尋
脚本:荒井晴彦 
(中沢けいの同名の小説による)
撮影:鈴木一博
出演:市川由衣 、池松壮亮 
2014.11.14 桜坂劇場 ホールAにて


新聞部の部室で高一の女子高生・恵美子は高三の洋から突然キスを迫られる。洋は恵美子のことが好きでもなんでもないけれど、ただ女の人の体に興味があっただけだと言うが、洋のことを好きだと思っていた恵美子は洋を追い回し、洋の愛を求める。進学で洋は上京。恵美子はときどき東京に洋を訪ねるが、洋も彼女を前にするとその体を拒むことができない。大学受験に失敗し、彼を追って千葉・房総海岸の母子家庭の実家から恵美子も東京に出て花屋に就職。「体だけでもあなたの必要にされればそれでいい」という彼女だけれど、実際には洋の心を求めている。やがて一緒に暮らすようにはなるのだが…。


植物園で追ってくる市川由衣に池松壮亮が「ついてくんなっ、帰れ!」と拒絶する映像で始まり、市川由衣は「してくれなきゃ帰れない」と言い、「1978年に”文学上の事件”と評された/18歳の現役女子高生が描いた/衝撃の問題作」、縦書きで「海を感じる時」とタイトルが出る。そこに「誰にでも愛される女…」と演歌っぽいフォークの歌声がかぶり…。高校の新聞部部室で市川由衣が読む『朝日ジャーナル』、母親が娘を諭す場面の背景に映るティッシュの箱のサイズ等から(もちろんよく見れば服装などからも)映画の時代設定が原作の70年代末に据えられていることがわかる。そして畳の部屋で裸で並んで座る二人の後ろ姿。そんな予告編から「たぶん駄目な作品だな?!」という漠然として予想をして観にいったが、やはり駄目ダメな映画だった。


予告編でなぜ駄目だと予想したかと言えば、文芸映画ではしばしばあることなのだけれど、原作に引っ張られすぎていると感じたからだ。女子高生の書いた衝撃の問題作の映画化であると強調した予告編にみる「売り」要因。縦書きのタイトル。古くさい音楽。原作の時代設定の踏襲。映画的ではないわざとらしい裸の後ろ姿のツーショット。映画は映画であって、映画であるべきで、小説の単なる映像化はつまらない。この作品を実際に観て思ったのだけれど、テーマ自体、プロット自体は、2010年代の現代に時代を設定しても十分映画になりうるものだ。その場合に必要とされるのは、原作の内容を深く読み解き、咀嚼し、現代という時代にそれを描き直すことだ(これでこそ創作)。脚本や監督にはそれが要求される。これは実は原作の1970年代末に時代を設定しても同じことなのだけれど、弱い個性は、表面的に原作に忠実に、また原作の1970年代末を描くことだけで何かを作った気になってしまう。たとえて言えば、現代のドラマならば内容が空疎ならつまらないが、時代劇なら内容がなくても和服にチョンマゲに長屋に武士に刀に…だけで何かを作り得た気になってしまうことだ。


そしてそれと似たもう一つの要因は性描写。作品の内容上セックス描写はある程度必須かも知れない。裸のシーン、カラミのシーンが非常に多く、この映画のレイティングはR15+。でもどうだろう。この映画、かつてのアメリカのヘイズ・コードの枠内でも十分に映画になるのではないだろうか。セックスは主要なテーマではあるけれど、それ以上に恵美子や洋のそれにまつわる心理の方が大切な物語だ。そのためには恵美子を演ずる市川由衣の裸の映像はさほど必要ではない。しかしこの映画は裸や性描写を多用するだけで、心理の方はあまり描こうとしない。AVではないのだから、裸とカラミだけでは作品とはならない。時間関係が頻繁に前に行ったり、後に戻ったりするのだけれど、そしてそれが不快なわけではないけれど、もしもこの映画の全シーンを時間順に並べ変えて観たとしたら、さらにつまらないものとなるだろう。それは脚本なり監督に二人の主人公の心理に対する考察が薄っぺらいからだ。良い映画といものは、たとえ全体のストーリーを知らなくても、ある1シーンを見ただけで強いインパクトを感じるものだが、そういうシーンや演技はこの作品には皆無だ(母と娘のシーンはやや除くとして)。この映画の市川由衣は無駄脱ぎだとは言わない。なぜなら彼女の脱ぎしか内容はないのだから。でもそもそもボクは市川由衣なる女優さんをよく知らない。調べたらテレビドラマには50本以上も出演しているようだが、テレビを見ない自分には無縁。劇場映画では『罪とか罰とか』と『TOKYO TRIBE』で見ているらしいのだけれど、まったく記憶にない女優さんだ。



映画度:★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。




2014.11.18
ラッコのチャーリー




D'après un roman éponyme de Kei Nakazawa. La romancière a écrit cet œuvre à dix-huit ans, en 1978. À ce moment-là, c'était un événement dans le monde littéraire au Japon. 


Un jour, Emiko, une lycéenne de 15 ans, est forcée par Hiroshi, un lycéen de l'année supérieure, de laisser embrasser. Elle lui demande s'il l'aime. Il lui répond qu'il ne l'aime pas mais veut une fois embrasser une fille. Étant vaguement amoureux de lui, elle accepte. Après elle commence à le suivre espérant acquérir l'amour (mental) de celui-ci. Face à elle, il lui demande de ne par venir le voir, parce que sinon il ne peut pas se passer de la baiser. Elle lui dit que même si ce n'est que son corps qui l'intéresse, être nécessaire pour lui d'une telle manière lui suffit. Alors leur relation continue dans ce style. Au bout de quelques années ils commencent à vivre ensemble, mais....


Je ne crois pas ni espère pas du tout qu'en France ou au Canada ce navet soit publié en salle ou en DVD, mais si par accident vous auriez l'occasion de le voir, l'évitez pour ne pas perdre votre précieux temps. On ne raconte pas la psychologie du héros et de l'héroïne, ne montre que les scènes d'amour en nudité. Le film a superficiellement mis le texte du roman en image, pas plus. Comme cela arrive souvent aux tant de films littéraires. 


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)

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