Ce texte à pour but de critiquer la tendance récente (mais démodée) des bandes-annonces des films au Japon. Vous en trouverez un résumé en français au-dessous du texte en japonais.
今日は映画の予告編についてのグチを書かせていただきます。
昨今の映画の予告編についての不満は主に2つあるのですが、短く済む方から書きます。それは見る者に誤解させることを意図的に狙った予告編が最近は当たり前のようになっていることです。具体例はすぐには思い出せないので「例えば」ということで説明します。映画の中で夫婦の妻の母親が事故にあってしばらく松葉杖や車椅子など不自由な生活を余儀なくされて、その妻は実家にしばらく手伝いに行くことになったとします。で夫に「しばらく実家に行きます」と言ったとします。このセリフをまったく別のシーンのほんの些細な夫婦喧嘩の映像にかぶせると、見る者は「夫婦間に何か不和があって、怒った妻が実家に行ってしばらく夫と距離を置くことにした」というように解釈するよう仕向けられます。なるほど音声(セリフ)も映像も実際に映画の中にあるものだとしても、これは明らかに見る者の誤解を狙った創作です。でもこれに類するような予告編の作りは最近よく目にします。映画の予告編を、映画という商品のコマーシャルだとするならば、これは偽りの広告です。こういうことはやってはならないことだと思います。
さて2つ目、今日の本題です。最初に書いておきますが、これは予告編を制作している配給会社なりを批判するものでは "必ずしも" ないということです。それはもし最後まで読んでいただければ御理解いただけると思います。
こちらの例は山ほどありますが、まずは『マルタのことづけ』というメキシコ映画を例にとりたいと思います。(「余命わずかな4人の子持ちシングルマザーと孤独な主人公の出会いを通して、(…)。」シネマトゥデイより)
上に引用した画像は、この映画のフランス版の予告編の、全48カットのキャプチャー画像です(クリックで拡大します)。メキシコ映画でスペイン語なので、当然セリフにはフランス語の字幕がついています。一応そのセリフに対する字幕の日本語訳を下に示します(解りやすいように発言者名を補ってあります)。
職場の守衛:元気かい?
クラウディア:全然!
スーパーの女性客:色々な人に出会えて楽しいでしょ。
少なくとも、話が出来るでしょ!
クラウディア:おしゃべりはしちゃいけないことになっているんです。
医師:盲腸炎ですね。
マルタ:独りなの?
クラウディア:いいえ。
マルタ:じゃ、家族の人は?
マルタ:乗って!
クラウディア:ありがとう。
マルタ:これが娘のマリアナ。
マリアナ、クラウディアに挨拶なさい。
マルタ:あの外にいるのがウェンディー。
ウェンディー:ベジタリアンなの?
私もやろうとしたけど、肉が好きでダメだったわ。
マルタ:あなた、いつから独りなの?
クラウディア:母はもう亡くなった。
マルタ:お父さんは?
クラウディア:知らない。
ウェンディー:どうしてあなたは私たちのところにいるの?
あなたにはそれが幸せ?
マルタ:それから、
3年たって…、
アルマンドに出会ったの。
クラウディア:彼があなたに病気をうつしたの?
マルタ:そう。
マルタ:クラウディア、私たちのもとを去らないで。
私たちの生活に(人生に)やってきてくれて、ありがとう。
このセリフの字幕以外に画面に現れるのは、配給会社のロゴ画面や映画祭での受賞歴、劇場公開日、あとは題名と監督名(ちなみにこの映画の原題は「へんてこりんなナマズ」ぐらいの意)。それだけです。
それに対して日本版予告編はどうでしょう。映像自体の編集も違っているけれど、それをここではまず無視するとして、「奇跡のような出会いから始まった本当の物語」というテロップ。これはまあ良いでしょう。問題なのはやがて始まる安っぽい情感のこもった女声のナレーション。曰く「ひとりぼっちで生きてきたクラウディアが出会ったのは、マルタとその4人の子供たち。初めて知った家族のぬくもり。そして母親の愛。」次に「尽きようとするマルタの命」とい文字画面があって、またナレーションが続きます。「私がいなくなっても、みんな笑顔でいて欲しいから。残したい、愛しいあなたたちへ。」そして画面向かって右下にメモノート風なのが3枚示される。
<マルタがやっておきたいこと>①
家に帰って、子どもたちに料理を作る ※ソーセージは多めに
<マルタがやっておきたいこと>②
クラウディアを独りにしない
<マルタがやっておきたいこと>③
家族全員で海でバカンス
最後にはまず「マルタのことづけ」というタイトルの文字にかぶされた女声ナレーターの「マルタのことづけ」とい発声。そして
「ふとした出会いが彷徨う命を輝かせ、孤独な心に明かりを灯す。
人が出会い寄り添う、それが人生なのだ。
マルタの言葉は心に深く残り、その愛は色褪せることはない。
この作品は、私の心にずっと寄り添う映画になるだろう。
―― 南果歩(女優)」
という文字画面で終わります。
もう1本引用しましょう。『ウィークエンドはパリで』です。この映画はイギリス映画なので、パリが舞台ですがほとんどが英語。なのでフランス版予告編にはフランス語字幕が入ります。もっとも英語版予告編もこのフランス版とほとんど同じです。英語音声の聞き取りよりもフランス語字幕の採録の方が楽なのでこちらを選びました。ただYouTubeなどには途中に入る文字画面にちょっとした差がある2つのバージョンがあります。長い方は同じ監督の『恋とニュースのつくり方』がフランス公開タイトル『Morning Glory』ではなくカナダ・ケベック地区での公開タイトル『La gloire des ondes』になっているのでカナダ版フランス語予告編なのかも知れません。まずはセリフ字幕の日本語訳です。
(タクシーでぐるぐる回りをしている)
ニック:なんでこんなことやってるんだい?
メグ:なんで、どうして、ですって?
パリにいるのよ。
ニック:まさしく。
だったら止まった方が良いんじゃないの?。
(レストランを物色しながら)
メグ:ここは現代的過ぎるわ。
ここはお客さんがいないわね。
ここは観光客向け過ぎるわ。
(モンマルトルの階段を昇ってきて)
ニック:膝は大丈夫かい?
メグ:今のところは。
エヴ(ニックの旧友モーガンの若い妻):どうしてパリにいらっしゃるの?
メグ:結婚記念の旅行なの。
エヴ:お二人の時間があるわけね。
メグ:黙って!
バカ!
あなたほど私を苛つかせる人はいないわ。
ニック:人の気持ちは愛から憎しみへと変わる…
ニック(坂道で転んで):本当に痛いんだよ。
ニック(二つ前のセリフの続き):…僕の経験では5分で。
メグ(突然走って逃げ出して):私を捕まえて!
メグ:面白かったわね。
ニック:人は変わらない。
メグ:そんなことないわ、ひどくなるものよ。
メグ(ホテルの部屋で夫を挑発するように)私をお気にめして?
(レストランで)
ボーイ:お勘定です。
ニック:すごい金額だね。
メグ:あなた、コートを持ってきてね。
(無銭飲食をして逃げる二人)
メグ:子供たちには内緒よ。
(二人を招いたパーティーでのテーブルで)
モーガン:ニック・バロウは、昨日会ったとき、
道路で女性とキスをしていたんだけれど、
その女性が妻だって言い張るんだよね。
モーガン:将来に乾杯!
ニック:ドラッグ、セックス、離婚、死。
メグ:パリ!
メグ:誰がパリ以外に住みたいと思うかしら?
この途中に文字画面がいくつか挿入されます。
ニックとメグはパリを再訪した
二度目のハネムーン
最後のチャンス(カナダ?版のみ)
『ノッティングヒルの恋人』、『ヴィーナス』
と『恋とニュースのつくり方』の監督の作品(カナダ?版のみ)
ある夫婦が
かつての愛の輝きを取り戻しに
この光の都で
他にカナダ?版にはメディアの批評の引用のテロップが2つ。
「心地よく辛辣」(LES FICHES DU CINÉMA)
「心地よいロマンチック・コメディー」(TÉLÉCINÉ OBS)
さて日本版の予告編です。ここでもまずは引用シーンの編集の差は無視するとして、なんと、
愛とは、お互いを見つめ合うことではなく、
共に同じ方向を見ることだ。
サン=テグジュペリ
「星の王子さま」
という文字画面から始まります。
そして、
心配性のニックと好奇心旺盛なメグ
結婚記念日を祝うため
週末にかつての新婚旅行先パリへ
いつもはすれ違いばかりだけど
その旧友との再会が
ふたりの歯車を狂わせてしまう
本当の思いが導く未来とは
旅先で気づく
夜に傷つけあっても
朝には笑いあえる幸せ
きっとあなたも
大切な人と旅に出たくなる
ウィークエンドはパリで
という、またも安っぽい情感のこもった女声のナレーションが入ります。
2本の映画の予告編を日仏の両版で比較してみました。日本版の予告編がいかにニュートラルでなく、おせっかいで押しつけがましいかがお分かりになったでしょうか?。よくDVDの映像特典にオリジナル版予告編と日本版予告編が入っています。あるいは「英語でもフランス語でもアルファベットのタイトル + スペース + IMDb」と入れてGoogleなどで検索し、IMDbのその作品ページにある「aka」というのをクリックすると各国語でのタイトルが列挙されているので、それをコピー&ペーストでYouTubeのページで検索すれば、ドイツ版の予告編やら、ブラジル版の予告編やら、色々な国の予告編が見られます。『テッド』の予告編の場合、基本同じ構成なのに国によってセクシャルな映像がカットされていたりして、その国の状況を垣間見れるのもまた興味深いものです。横道にそれましたが、こうして各国の予告編を比べると、日本のがどれだけ「おせっかいで押しつけがましいか」がわかります。
『マルタのことづけ』の方で言えば、たとえば「初めて知った家族のぬくもり。そして母親の愛。」というナレーションが入りますが、それは映画の中でクラウディアのセリフにあるものでも何でもなく、単なる予告編制作者のおせっかいであって、実際に映画を観て観客が感じるべきことです。メモ書き風の<マルタがやっておきたいこと>①②③にしても、マルタがそうした思いを映画の中で語る、あるいは書くわけではありません。イザベル・コイシェ監督の『死ぬまでにしたい10のこと』ではガンで余命を宣告されたサラ・ポーリーは「死ぬまでにしたい10のこと」をノートに書き出しますが、それとは違います。きわめつけな南果歩のコメントを表示した文字画面。この女優さんは好きでも嫌いでもありませんが、別に彼女の意見など聞きたくもありません。
あるいは2本目の『ウィークエンドはパリで』はどうでしょう。なんで予告編は冒頭でサン=テグジュペリを引用しなければならないのでしょうか?。映画にはまったく無関係です。もちろん映画批評を書く場合にこのサン=テグジュペリの有名な文を引用して論を進めることはおおいにけっこうです。しかしこれは予告編です。「心配性のニックと好奇心旺盛なメグ」「いつもはすれ違いばかりだけど」「夜に傷つけあっても 朝には笑いあえる幸せ」。これらも映画を観た観客が感じるべきことであって、映画の配給者が観客に教えてくれるべきことではないはずです。そしてこちらのきわめつけは「きっとあなたも 大切な人と旅に出たくなる」でしょうか。映画を観て「大切な人と旅に出たくなる」のは観客の自由ですが、観客は「大切な人と旅に出たくなるような映画」を求めて映画を観にいくのではないはずです。別の独り言にも書きましたが、ミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』の予告編の最後には「人生はかくも長く、素晴らしい。」と押しつけがましい解釈が出ます。
最初の方にお断りしたように、以上に書いた日本版予告編批判は、その予告編の制作者なり、配給会社を批判するものでは、必ずしもありません。予告編というのはコマーシャルです。劇場で他の映画の前に上映するにせよ、もっと短いスポットをテレビで流すにしても、なるべく多くの観客を動員するための宣伝です。だとすると、海外のような「そっけない(?)」予告編よりも、日本の「おせっかいな」予告編の方が、日本では宣伝効果が高いということなのかも知れません。そうであるなら、そっけない(?)予告編では人々は映画館に足を運ぶ気にはならないけれど、おせっかいな予告編を見ると映画館に観に行きたくなるということになります。つまりは配給会社の問題ではなく、観客の問題です。でも一方では、そんなに映画好きというのでもない知人の口から「ああいううるさい予告編ってイヤになるね」というような言葉を少なからず耳にします。あるいは単に旧来の予告編の作り方を変えようとしていないだけかも知れません。
海外と日本の予告編の性格の違いは、もちろん海外の予告編の作りにも作為はあるわけですが、基本的に映画の中からとられた場面を見てどういう映画であるかを観客が自分で判断するのが海外の予告編。それに対してその判断を予告編制作者があらかじめ策定し、それを情感をこめたナレーションなどを使って観客に提示してくれるのが日本の予告編なのではないでしょうか。このブログで映画以外のことを書いた「独り言」の中にも、自分で主体的な判断をしようとする欧米人(欧米人に限らず多くの非日本人)に対して、自分で判断しようとせず、ただ他者(権威や世間)の判断をそのまま受け入れようとするのが日本人であるというような対比について書いたものがあります。そしてその差は大人と子供の違いとも関連しているでしょうし、他人と違った独自の意見(個性)の尊重よりも、多くの人と同じであることの「和」に安心する日本人の性格とも無関係ではないはずです。だからこそ南果歩さんが感動したというようなコメントは、一つには判断を与えてくれるものであり、他方彼女との同じ感動の共有という「和」に誘うものでもあり、二重に意味で宣伝効果のあるものなのかも知れません。そして "情感をこめた" ナレーションと無関係でないと思われるのが、この手の映画では「情」を強調して作られていることです。上に2本の映画のフランス版予告編のセリフを採録しましたが、1本目ではマルタの具合が悪くなって病院へ向かう場面、「死ぬのを見たくないの」という末娘マリアナ、「時々 死ぬのが怖くなる」というマルタ等、情に訴えるシーンでフランス版予告編にはない部分が使われています。2本目では「記念日に僕を捨てるのか?」や「行かないでくれ」というニックに対して哀れを催させるような部分が日本版では使われています。
長いグチを書いてしまいましたが、簡単に言えば、ナレーション入りの、情に訴え過ぎた予告編と、映画の内容を意図的に誤解させる再編集の予告編はやめて欲しいということです。
2014.11.23
ラッコのチャーリー
Premier exemple. La bande-annoce du film mexicain « Les Drôles de Poissons-chats » de Claudia Sainte-Luce. La bande-annonce française nous montre seulement les scènes du film avec le titre et le nom de la réalisatrice du film. Mais celle au Japon une narration émotionnelle d'une voix féminine nous raconte: « Claudia qui menait une vie solitaire a fait connaissance de Martha et ses quatre enfants. Elle touche pour la première fois le clan, l'environnement affectueux et tendre d'une famille et une affection profonde d'une mère envers ses enfants. Mais la vie de Martha va s'éteindre. Ce qu'elle espère c'est que même après sa mort, tout le monde ne perd pas le sourire. Ce qu'elle veut laisser à ses enfants qu'elle aime du cœur... » Et cette bande-annonce finit par un intertitre suivant. « Une rencontre inattendue fait briller la vie errante, éclairant le cœur solitaire. La rencontre et la relation affectueuse, c'est la vie. Les paroles de Martha restent profondément dans notre cœur, et ne flétrissent jamais. Ce film sera un film qui accompagnera mon cœur à jamais. ( commentaire de l'actrice Kaho Minami ) ».
Deuxième exemple. Le film britannique « Un week-end à Paris » de Roger Mitchell. La bande-annonce française (ou québécoise) se constitue par les scènes du film avec les intertitres qui expliquent l'intrigue du film: « NICK ET MEG / RETOURNENT A PARIS / POUR UNE DEUXIÈME LUNE DE MIEL / COMMENT UN COUPLE / VA RETROUVER L'ÉTINCELLE / DANS LA VILLE LUMIÈRE ». Par contre, ici aussi, celle japonaise comporte une narration plus ou moins émotionnelle d'une voix féminine: « Nick, pessimiste, et Meg, curieuse / Pour fêter leur anniversaire de mariage / Vont à Paris un week-end / Où ils étaient en voyage de noces / Les jours quotidiens sont toujours pleins de désaccords / Les retrouvailles d'un vieil ami de Nick / Vont bouleverser la relation époux-épouse / Qu'est-ce qu'est un avenir à quoi leurs vrais sentiments conduisent / Seulement lors d'un voyage nous fait connaître la vérité / Le bonheur de pouvoir se rigoler le matin / Après la dispute de la veille / Certes vous aussi / Vous désirerez partir à un voyage avec votre partenaire précieux(se).» En plus cette bande-annonce commence par une citation du texte de Saint-Exupéry: Aimer, ce n'est pas se regarder l'un l'autre, c'est regarder ensemble dans la même direction.
Ces narrations ou citation sont ennuyeuses. « Elle touche pour la première fois le clan, l'environnement affectueux et tendre d'une famille et une affection profonde d'une mère envers ses enfants. » Bon. D'accord. Je ne contredis pas. Toutefois, ce n'est pas quelque chose que la bande-annonce nous enseigne, mais c'est le spectateur qui le sent en regardant le film. C'est de même pour « Le bonheur de pouvoir se rigoler le matin / Après la dispute de la veille». Je suis bien d'accord que quelqu'un cite la phrase de Saint-Exupéry en écrivant une critique de ce film, mais ce n'est pas le cas pour une bande-annonce. Tout cela est trop embêtant et ennuyeux. La bande-annonce doit nous faire entrevoir le film mais ne doit pas déterminer d'avance comment les spectateurs doivent le voir. La bande-annonce japonais du film « Amour » de Michael Haneke finit avec un intertitre: « La vie est tellement longue et magnifique ». Mais cela doit être l'impression d'un tel ou tel spectateur après avoir vu le film.
Je n'accuse pas forcément le distributeur qui a rédigé ces bandes-annonces. Elles sont des publicités pour faire venir plus de spectateurs aux cinémas. Certes les distributeurs ont bien pensé à leur efficacité. Alors, c'est peut-être cette sorte de bande-annonce qui attire plus de spectateurs au Japon. Ou bien tout simplement ils se sont satisfaits à la mode ancienne, désuète, et n'en veulent pas de réforme. Mais il est vrai aussi qu'il y a des gens autour de moi qui disent qu'ils en ont marre de ces bandes-annonces fouineuses et trop insistantes. Et je pense aussi au caractère des Japonais qui évitent plus ou moins de juger quelque chose soi-même et ont tendance à accepter une opinion courante. De toute façon, en un seul mot, je n'aime pas une telle sorte de bande-annonce.
(écrit par racquo)
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