Il y a une introduction du film en français tout en bas. Le texte en japonais n'est pas une critique proprement dit du film, mais un petit recueil de ce à quoi j'ai pensé en regardant ou après avoir vu le film.
原題 Titre original : がじまる食堂の恋
Gajimaru shokudô no koi
(Un amour au Restaurant Gajimaru)
Réalisé par Kentarô Ohtani
Écrit par Yuko Nagata
Avec:Haru, Yû Koyanagi, Seika Taketomi, Dôri Sakurada
2014 Japon / color 98min (ratio 2,35)
監督:大谷健太郎
脚本:永田優子
出演:波瑠、小柳友、竹富聖花、桜田通
2014.10.24 桜坂劇場 ホールBにて
採点( ma note ):20/100
名護まち活性計画有限責任事業組合
この映画は9月20日から桜坂劇場で公開されていたけれど、その前に予告編を見て、あまり観たくはない作品だと感じていた。今回はパスか?!、とも思ったけれど最終日に観にいった。そしてレビューも書きたくはないのだけれど、この映画の制作が「名護まち活性計画有限責任事業組合」が主体となった、いわば町おこしとしてのものだというので、とりあえず感想(批判)を書かせていただくことにした。世間的にはけっこうプラスに評価されているし、「名護に行ってみたくなった」などというコメントも見られるから、町おこしとしての目的は果たしたと言えるかも知れない。しかし、商業的に金儲けを目的とした映画ならばともかく、こういういわば公共的性格をもった映画制作において、「こんなものを作っていて良いのだろうか?」というのが観ての感想だ。仮に「町おこし」に成功したとしても、「映画文化の堕落」、「映画文化の低俗化」をさらに推進するような行為は望ましいことではないと思う。
大人のラブストーリー
予告編を見たときから気になったのは「一軒の食堂を舞台に繰り広げられる切ない大人のラブストーリー」というコピー。(ストーリー等については紹介的には書かないので、公式サイト http://gajimaru-shokudo.com/ を参照していただきたい。)日本が舞台で、日本人が主人公で、「大人のラブストーリー」なんてそんじょそこらにあるはずがないと思うからだ。実際に映画を観ての感想は予想通り。「大人のラブストーリー」ではなく「二十歳代半ばで、体も大人だけれど、精神年齢は子供の、ラブストーリー」だった。まあ宣伝のためのコピーなどというのはどうでも良い(でもあまりに詐欺的なのは問題だが)。ストーリー自体は十分に映画の題材となりうるものだとは感じた。バス停でバスを待っていたみずほ(波瑠)にタクシーを待たせて降りて声をかけた見知らぬ旅行者・隼人(小柳友)がそのままみずほの家(店)にいそうろうしてしまう展開のリアリティーの欠如を批判する向きもあるが、上手く描きさえすれば映画というのは何でもありの世界だから、それはそれで良い。
テレビドラマ
上映が始まる。「がじまる食堂の恋」というタイトルが出る前に1~2分の導入シーンがあって、そこを見ただけで映画館を出たくなった。でも自分は一応見始めた映画は最後まで観るのが主義なので(ごくごく稀に期待を良い意味で裏切られることもあるし)、そのまま観続けた。そして数分後に頭に去来したのは「自分はなんで 100分もの平凡なテレビドラマを、映画館の最前列中央に座って見ているんだろう」という思いだ。テレビドラマと劇映画。これはもちろん映像作品を分類する絶対的二元論ではない。どちらにも良い作品はあるし、テレビ的な映画もあれば、映画的テレビドラマもある。誰とはここでは名指しはしないけれど、「今の日本映画はほとんどがテレビドラマで、映画と呼べるものではない」という識者(映画監督)もいる(このブログ内の別の記事では名指ししています)。調べてみたらこの映画の脚本を書いたのはテレビ界の人だった。映画の中で主人公のみずほが東京にいる恋人の翔太(桜田通)をサプライズで訪ねたときのことを語るシーンがあって、そこでみずほは「上京した」という言葉を使っていた。自分は数年前まで那覇である飲食店をやっていて、この店がやや特殊でお客さんと一緒に話すことが多かったのだけれど、沖縄の若者たちが「上京する」という言葉を使ったのを聞いたことはたぶん一度もない。「東京に行く」と彼ら・彼女らは言う。根拠はあまりないけれど、沖縄以外の内地の地方の人は東京に行くことを上京すると言う場合がある気がする。つまりはこの脚本家の詰めは甘過ぎるのだ。お手軽な仕事と言ってよいかも知れない。まともな映画を作りたければその辺をしっかり詰めるべきであり、そういうお手軽さもテレビドラマ的であって、映画的ではない。
ここから先は映画そのものからはかなり離れた、この映画を観ながら、あるいは見終わって、いろいろ考えた・感じたこと、思い出したこと等を書かせていただきます。比較するようなことで反感を持たれかねないこともあえて書きますが、どちらが良いと言うつもりはないので、その辺は寛容にお願いします。
ボクはアウトサイダー
この日本の社会で自分が一種のアウトサイダーだと感じている。良くも悪くも自分は日本生まれの日本育ち。これまでの人生のほとんどを日本で送ってきた。だから何とは言っても日本的情緒とか、日本的慣習とか、日本人的考え方とか、あるいはもっと下世話に日本食が(も)好きだとか、そういう日本的なものが身にしみついている。ただアウトサイダーとなってしまったのは、小学生の頃の3年間をフランスで過ごしたこと、パリの普通の小学校に通っていたことによる。フランスに行く前にはもちろん日本で小学校に通っていた。突然パリの学校に入れられ、最初は言葉もわからなかったけれど、外国の学校というのはこんなものなんだと特別に違和感はなかった。そして今度はフランスから帰国して日本の小学校に編入したとき、もちろんフランスに行く前に通っていたから日本の学校システムがどのようなものであるかは知っていたが、とにかく違和感を感じて、システムにも先生や級友にも、表には現さないようにしていたが内心では馴染めなかった。苦痛だった。幸せでなかった。帰国早々はまだ住居もととのわず、学校も正式に決まらず、しばらく東京・新橋の第一ホテルに泊まっていた。しかし買物や食事で外に出ると、やはり日本の社会や人々に馴染めなかった。
日本人の精神年齢は10歳の子供
その頃はなんと言っても小学生だから、その違和感の性格や理由を深く考えることはしなかったし、そもそもよくわからなかった。しかし年齢とともに段々にわかってきたのは、日本の(日本人の)社会は「子供」の社会なのではないかということだ。フランスにはまず大人の社会があって、それを前提とした上での子供がいる。ところが、もちろんこれはフランス的発想で見た場合だけれど、日本の社会は子供と大人が渾然一体としていて、その社会を支配しているのが子供的だということだ。いったいいつから日本は子供社会になってしまったのか。あるはもともと太古からずっと子供社会だったのか。マッカーサーは1945年に敗戦日本を占領にやってきたとき、「日本人の精神年齢は10歳だ」と言ったらしい。これは数年前にたしか大林宣彦の映画の中にあったセリフで知った。
世界で最もセックスをしない国民
色々な調査などで日本人は世界で最もセックスをしない国民と言われる。なにぶんデリケートな話題だからアンケート等での回答がまったく正直なものとは限らないけれど、そういうバイアスがあるにせよあるランキングでは世界の 100位に入るか入らないか程度だから、セックスをしない部類の国民であることは確かだろう。たとえば敬虔なカトリック国であるイタリアやポーランド。それも信心の失われた今日ではなく半世紀前でもよい。姦淫を禁じる宗教を持ちながら婚外や婚前のセックスは日本人よりはるかにお盛んだ。もちろん日本では風俗産業、AV産業は旺盛だし、買春ツアーなどというのもある。しかしそれはごく普通の人々の、婚内・婚外・婚前・不倫・行摩(ゆきずり)の、金銭の直接関与しないセックスの欠如を埋め合わせているのかも知れない。伊丹十三氏はかつて「個我の確立のない日本人のセックスは快楽主義でしかありえない」というようなことを言っていた。自分もそう思っていた。個我が確立し各自が「孤独」を生きるからこそ、人と人との究極の触れ合いであり、あるいは自己アイデンティティーの確認でもあるセックスを人は必要とすると。その考えは今も変わっていないけれど、別の言い方をすると、日本人は子供だからセックスを必要としないのではないか。もちろんフロイトの言うところの口唇期やら肛門期など幼児性欲もあるし、子供の自慰行為もあるだろう。しかし小学生や中学生の子供は男女の触れ合いである性的肉体交渉をもたずに何年間も日々を過ごしている。つまり子供にはセックスは必要ではないわけで、日本人は子供だからセックスをしないのではないか。
再び映画『がじまる食堂の恋』に戻って
最初の方に世間的評価は必ずしも悪くないことを書いた。ご当地映画で、最終日だったこともあり会場には少なからぬ観客がいたが、上映が終わって出てくる彼らのほとんどに不満げな様子はなかった。「いい映画だったな。」なんていう声も聞こえた。彼らにとってはお手軽なストーリーをお手軽な表現で語ってくれればそれで「良い映画」なのだ。映画史家の四方田犬彦氏は日本の映画館には若いシネフィルの観客がいないとどこかで書いていた。若い人に限らず、シネフィルという言い方が適当かどうかは疑問だけれど、映画を映画として楽しむ、趣味とする文化が日本にはあまりない。ネットで色々な映画レビューを読んでみると、日本では大半がストーリーとスターに関して好きとか嫌いとかが書かれているだけだ。一方フランスの映画サイトALLOCINEで観客レビューを見ると、たとえば『ハンガー・ゲーム』の場合約3,000のレビューがアップされていて、その中の3分の1か半数が映画批評的で、他作品との比較を語り、シナリオについて、撮影について、照明について、セットについて、演技について、作品やストーリーの持つ意味について語り、分析し、批評している。こういう観客の存在が映画文化を育てる。日本人はいつの間にかテレビ(ドラマ)に毒されてしまった。園子温は日本の映画はどれも賞味期限切れで、ラース・フォン・トリアーの『NYMPH()MANIAC』には今の日本の映画にないものすべてがあるとか言ったらしいが、賞味期限切れである以前に不良品が多過ぎる。そしてお手軽テレビドラマで満足する背景には、日本人が子供であるというのも無関係ではないかも知れない。女優の岸恵子はフランス人の映画監督と結婚してフランスに移り住んだ。彼女がフランスで育った娘と日本に来たとき、娘デルフィーヌ(当時18歳とか20歳頃)は日本のテレビのある時代劇を観て子供向け番組だと思ったらしい。彼女にはけっして大人が観るようなものとは思えなかった。
映画度:★☆☆☆☆*
*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。
2014.10.28
ラッコのチャーリー
Je crois bien que et j'espère que ce film ne sortira jamais en France, ni au cinéma, ni en DVD. Même si une occasion vous présenterait de le voir, ne perdez pas de temps. Tant ce film est nul. L'intrigue des deux ex-couples.
Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.
(écrit par racquo)
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