Iranian Cookbook(Dastoor-e ashpazi)
監督:モハマド・シルワーニ
2010年 イラン DVカム カラー72分
2013.01.21桜坂劇場ホールAにて
この映画の邦題はほぼ英語題の直訳なのだけれど(ペルシャ語Dastoor-e ashpaziの意味は不明)、そしてプログラムを開くと下の写真のように、
料理の本のような料理の作り方が掲載されていて、まあ予想するからに女性向けの映画と勘違いする人もいるのではないだろうか。自分が見にいったときも観客はたぶん自分以外すべて女性だった。たしかにこの映画では監督の親族や友人の主婦たちが台所でカメラに向かって料理の作り方を説明しながら実際に作る様子が紹介されている。しかし監督と主婦たちとの会話から見えてくるのは、一つには時代と共に変わるイラン家庭での食文化ではあるけれど、それにもまして男性中心社会からの若い女性たちの自立の意識なのだ。つまりは広い意味でイラン社会の変化ということでもある。ミステリーのような劇映画ではないのでネタバレしてしまってかまわないと思うので最後の落ちを書いてしまおう。エンドロールに入ったところでテロップで出るのは、撮影当時100歳近かった友人の母親が亡くなったというのには驚かないが、その後に「この映画の後、妻は私と離婚し、妹も離婚を考えている。」という文なのだ。(ぜひYouTubeで予告編だけでも見てください。⇒)
上の写真の監督の妻も夫に対する不満をたらたらと映画の中で語っていた。彼女は言う。「時代と生活スタイルが変わり、昔風に床ではなく椅子でゆったりするけれど、頭の中は今も同じ。考えは変わらない。男は政治を語り、女はその首を1人ずつ切り落とす夢を見る。」そして監督の妹は言う。「兄さんはどうか知らないけど、イランの男は自分がいばいりたいから女の仕事を見下し、過小評価する。うちの家族に限らないどこも似たようなもの。」
まあこんな事情は今の日本でも、家庭によっては、そう変わらないのかも知れない。自分の知るあるご夫婦は共稼ぎで、多少は夫の方が勤務時間は長いかも知れないけれど、家では子供の世話から炊事・洗濯・掃除…、ほとんど妻がやっている。夫だけが休みの日にカップ麺を食べても汁の残ったカップや箸はそのままテーブルに置かれたまま。良くて流しに置いてあるぐらいだ。このご夫婦は円満なようなので口を出す気はないけれど、これが日本に於ける一つの現実だ。そういう意味ではこの映画で描かれるイラン家庭の問題はそのまま日本での問題でもあるだろう。
この映画を見ながら感じるもう一つのことは食の工業化の問題。登場するもっとも現代的な主婦は監督の妻だろう。夫が10時半に何人もの知人を連れてきて料理を出せと言われれば、もちろん支度に時間のかかる料理を出すことなどできない。それゆえに缶詰を温めるだけという手抜きもしかたがない。でもそれと比べると伝統的な主婦たちは3時間も4時間もかけて料理をする。出来合いの冷凍素材も使わない。インゲンなら市場で自分で選んで良いものを買い、炒めて冷凍してある。そしていちいちいちいちすべて自家製でちゃんと料理をする。ドキュメンタリー映画『モンサントの不自然な食べもの』の監督マリー = モニック・ロバンはインタビューで「フランス人は、きちんと料理して良い食生活を送ることに重きを置く。」と言っていた。自分もどちらかと言えばそういう主義(?)だ。
今自分はとても広い賃貸マンションに何人かでルームシェアをして住んでいる。沖縄では(少なくとも自分は)冬でも暖房は入れないないので、少々寒いこともある。ここに引っ越して来たのは2008年の12月末。そんなある夜、寒いからみそ汁でも作って飲もうということになった。自分は鍋に鰹節を入れてだしをとり始めていたのだけれど、しばらくして他の2人が「みそ汁まだぁ?」と訊く。「今だしとってるから」と言う2人はビックリ。当然お湯を沸かしてインスタントをお椀で溶かすだけだと思っていたらしい。今日も仕事から帰ってきて、時間があまりないし一人の食事(昼食兼夕食)だったけれど、鍋にバター敷いてシメジを入れ、そこにサーモンを載せ、白ワインを入れてパラフィン紙で落としぶた。鮭と茸を皿に盛って残りの汁をバターモンテしてソースにした。冷凍や缶詰の素材を使ったりと手抜きはするけれど、食事というのは料理して食べるものだと思っている。映画『モンサントの不自然な食べもの』や『フード・インク』(YouTube予告編⇒)を観るといかに現代の食の工業化が危険であるかがわかるが、時間をかけて作る料理がイランでも危機にあるのは考えさせられる。
ラッコのチャーリー
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