「あやまる」考
最初にお断りしておくと、これから下に書く比較のようなもの、そのどちらが良いとか正しいとか決めつける意図はない。自分としては日本的「あやまり」の世界に少々ウンザリしているだけだ。
友人から聞いた話によると、日本人はいとも簡単に謝る世界中の3民族の一つだという。あとの2つは、エスキモーと、名前も聞いたことのないニューギニアの奥地の部族らしい。我々日本人は日本での文化・習慣を当然として感じているから、例えばフランスに住むと「フランス人は謝らない」と簡単に断ずる。しかしどうも簡単には謝らないフランス人の方が世界標準で、日本人の方が実は例外的なのかも知れない。
映画を見ていてもそんな様子は解る。この間も何かの映画を見ていたら、謝る人に対して謝られた相手が「大人なら謝ったりしないで」と言っていた。なぜ「大人なら」かというのを少し解釈すれば、子供は自分で犯した過ちなどの責任を取りきれない。店で商品を落として壊してしまっても、お金を出して弁償するのは本人ではなく親だ。だからその子供は親に「ごめんなさい」と謝る。しかし大人であるなら責任はその本人が取らなければならない。
夫の浮気が妻にバレたとして、日本なら夫は妻に謝るだろうけれど、妻としては、謝ってもらっても起きてしまったことが無になるわけではない。だから夫が浮気をしたなら、謝るのなんのというのではなく、その行為によって妻の信頼を失うとか、愛を失うとか、離婚を請求されるとか、その場合に慰謝料を請求されるとか、そういうことになることを責任として受け入れることが求められるのであって、謝ることにより許してもらうとかいうのはないのだ。
日本では重要であるけれど、自分にとっては不快なこと。それは両者の立場の関係から、立場の低いとされる者は、悪くなくても立場の高い者に謝ってしまうことだ。逆に低い方は高い相手に対してあえて文句を言わない。つまり謝るというのは、立場の上下関係を互いに確認する制度上の行為であると言っても良い。お客は偉そうに店員に文句をつける。店員はお客のクレームが理不尽であることが解っていても、反論せずにただ下てに謝って事を収めようとする。(しかしここで気づいても良いことは、ある特定の客の理不尽に対して払い戻しとかいった穏便な処理を店がしたとき、店としては全体としてそれが有利な方策だったとしても、その理不尽な要求の代価を支払わされているのは他ならぬ善良な客であるということだ。)
立場の上下関係と言ったが、親と子ではこの関係があるわけであり、神と信者の間にもそれがある。だから子供は親に謝り、信者は神に懺悔する。しかし大人と大人の間では、仮に夫が浮気をしようとも、夫より妻が偉いという上下関係がもともとあるわけではない。
私は父の仕事の関係で小学生だった一時期家族と共にフランスに住んでいた。その父が会議出席の出張でエール・フランスに乗りイスラエルに向かった。父はテルアビブで飛行機を降りたが預けた荷物が出て来ない。その便は当時「南回り」と呼ばれていた便で、パリからテルアビブやその他2、3の都市を経由して東京まで行く便だった。調べてもらった結果、パリの空港でチェックインしたとき担当者が父の荷物に「東京行き」のタグを誤ってつけてしまったらしい。父の荷物はまだ飛行機の中にあり、東京に向かっていた。
ファーストクラスでもあったこともありテルアビブ空港のエール・フランス職員の対応は丁寧だったが、父はある不満を感じていた。それは「必要なものはお買いになって領収書を出していただければすべて払い戻しさせていただきます。」とは言ってくれるものの、陳謝の言葉が一言もないことだった。フランス人お得意の「Je suis desolé. = お気の毒です」と言うだけで謝罪の言葉はない。「タグを間違って付けたのはパリの係員であって、私ではない。」とも言う。ちょっとコメントするなら、もし自分のミスでもないのにテルアビブの担当者が謝ってしまったら、その人はパリの係員の犯したミスを自分の誤りだと認めてしまうことにもなる。だいたい自分のでもない他者の犯したミスの謝罪をするというのは越権行為だし、勝手にエール・フランスを代表して謝罪するなどということもできない。結局東京まで行ってしまった荷物を父が受け取ったのは3日くらいたってからだった。
さて怒っているというのではなくても父が納得いかなかったのは、誰のミスであってもエール・フランスという組織が犯したミスなのだから、テルアビブのエール・フランスの担当者は迷惑をかけた父にエール・フランスの職員として謝罪しても良いのではないかという疑問だった。そこでパリに戻った父は現地雇いの有能なロシア系フランス人の秘書にそのむねの手紙をエール・フランスの社長宛てに書くように頼んだ。この人は英仏独語はペラペラで、その他事務処理などの能力が実に高い人で、父の赴任前から何年も働いていてかなり日本人の発想も知っていたのだけれど、そのマダム・Bは父に言った。「書けというからなるべく真意を伝えるように手紙を書くけれど、ムッシュー****、正直言って私はあなたの言うことの意味が良くわからない。」
次は父ではなく大人になった私が海外旅行で経験したこと。ある年の暮れから新年にかけて私はヨーロッパを旅行した。航空券の安かったアエロフロートのモスクワ経由便でドイツ(当時は西ドイツ)のフランクフルトに行った。予定では12月24日の夕方18時過ぎにフランクフルト空港到着で、ハーツ Hertzのレンタカーを予約してあった。予約にはもちろん到着の便名も入っていた。到着が遅れたので実際に着いたのは20時頃。入国手続きを済ますと早速ハーツのカウンターに向かったが誰もいない。既に閉店している。本来は年中無休で23時頃までオープンしているはずのカウンターが、である。近くの別の何かの人に尋ねると18時はおろか17時頃にハーツの担当者は帰ったとのことだった。その日はフランクフルト空港で車を借りて、1時間ほど走った所に泊まるべくホテルを予約してあった。足もないのでそのホテルには電話をしてキャンセルし、しかたなくその夜は空港から徒歩1分くらいで、空港ともつながったホテル・シェラトンに泊まった。
翌朝ホテルで朝食を済ますと、ハーツのカウンターに向かった。カウンターは開いていた。幸い担当者はフランス語ができたので、詳しく事情を話し、予約確認書も渡して車を借りることはできた。でも謝罪の言葉はもちろんない。「クリスマス・イヴだったからね。」で終わりである。これが日本であったら「大変ご迷惑をかけて申し訳ありませんでした。」と平身低頭謝罪しなければ客は逆上するだろう。
日本での「謝罪」に関して私が羞悪だと思う映像がある。今はもう二十年以上ほとんどテレビは見ない私だけれど、以前によく見せられたのは、事故とかなんらかの不祥事とかがあって、社長とか責任者とされる会社のお偉いさんが記者会見などで深く頭を下げて陳謝する光景だ。この陳謝の様子をテレビで流すことが恒例となっている。一つの制度と言ってよい。そういう時の記者の質問の様子や態度はなんであんなにもデカいのだろう。記者自体はその不祥事の報道をしているだけで、彼らが直接被害を受けたわけでもないのに、である。さしずめ「世間に対して罪を犯した」ということで、記者諸子はその世間の代弁者というつもりなのだろう。そして謝って当然とテレビを見ている視聴者も、ほとんど大多数は被害者ではない野次馬である。
ここに見てとれるのは、安全な場所にいて責任者を糾弾する記者や視聴者と、非難を受けて陳謝することしかできない社長などという図式だ。つまり上下関係、強弱関係の確認なのである。そんなことで視聴者や記者たちは正義の名の下にいい気になっていて、そこにきっと快感を得ているのだ。しかもこうした場合、謝るのは住所不定無職の犯罪者とかではなく、大会社の社長という地位も高い人だから、快感はなおさらなのだろう。自分は大会社の社長を見下げる立場にあるという快感かも知れない。
ここまで書いてきた「あやまる」ということと無関係でないのが、日本人のある種の公衆マナーの悪さだ。例えばデパートのような所に行く。正面玄関は手で押して開くタイプのガラスドア。これを見た途端にイヤな気分にさせられないよう警戒してしまう。私が入ろうと押し開けたドアのすき間から何も言わずにスッとすり抜けて行く人がいるからだ。それが子供ならいざ知らず、普通の大人の人なのだ。
次はエレベーター。途中の階で止まって誰かが降りる。そしてドアが閉まり始める。そのときエレベーターに乗ろうと走って向かってくる人影。操作ボタンの前にいた気のいい人は親切にも「開⇔」ボタンを押してドアを再び開け、乗ろうとする人が乗るまでボタンを押し続けて待ってあげる。無事に乗り終えた人は操作ボタンを押して自分が乗れるよう待ってくれた人に「ありがとう」でも「すいません」でもない。会釈するでもなく、さも当然のように無表情だし無言だ。
売り場に行こう。ある客が店員をつかまえて「○○はどこにあるっ?。」と訊いている。不機嫌そうな顔をして、横柄な口調だ。店員は丁重に売り場を指示する。それで終了。客は何も言わずにそのまま教えられた売り場に向かうだけだ。ここでも言葉や会釈はない。
日本語の「ありがとう」は「すみません」で置き換えることができる。つまり礼を言うことは謝罪とつながるのかも知れない。不祥事の社長の場合でも、謝罪を拒否した映画の人物の場合も、謝罪というのは、言う側と言われる側の上下関係を作る。つまり2人の人物の「対等」を破る行為なのだ。人々は毎日いろいろな人間関係において上位であったり下位であったりする。同じ人が会社の上司に対しては下位であるが、部下に対しては上位。子供に対しては上位、親に対しては下位。取引先の顧客に対しては下位だけれど、お店に行って買い物をすれば店員に対して上位。
なるほど「お客様が買い物をして下さる」から店の商売(金儲け)は成り立っているのだけれど、わたし的なちょっと極端な解釈をするなら、そのお店があることで客も便利に商品が買えるという恩恵に預かっているのだし、そもそもそこで働く店員よりも客が偉いという比較は成立しない。そこで働く一労働者と買い物をする客は人としてあくまで対等である。店の不始末、というよりも多くの場合理不尽ないいがかりや文句をつけ、店員の人格をも否定するようなことを言う客は羞悪だ。そしてそれを黙って耐えている文化自体に嫌気がさす。
そしてこの破られた「対等」の人間関係の中で日本人は上位の方であることを望む。だから買い物はせっかくのチャンスなのだから、店員には横柄に振る舞って上位をしっかり味わおうとするのか。エレベーターの中の人は見知らぬ他人なのだから、礼を言うことによってわざわざ自分をその人より下位に感じることはない。一方例えば西洋人は見知らぬ人との触れ合いで「人として」互いに対等だと思っているから、軽い礼などを簡単に言い合う。あるいは深い人間関係では誤り・謝られることによって対等が破れるのを拒否する。
簡単にあやまる礼儀正しく美しい日本人とその文化。そう言えるとするなら、それは謝罪が相互的である場合だ。「時間に遅れてごめんなさい。」「いえいえ僕の方がこんな時間に来ていただこうなんてご迷惑をおかけしました。」「この時間に来ると約束をしたのは私ですから。」「そう恐縮なさらないで下さい。無理なお願いをしたのではないかと申し訳なく思っているのは僕ですから。」というようなのは、回りくどいけれど良しとできるかも知れない。
ラッコのチャーリー