2014/10/27

映画『がじまる食堂の恋』を観て




Il y a une introduction du film en français tout en bas.  Le texte en japonais n'est pas une critique proprement dit du film, mais un petit recueil de ce à quoi j'ai pensé en regardant ou après avoir vu le film.


原題 Titre original : がじまる食堂の恋
Gajimaru shokudô no koi
(Un amour au Restaurant Gajimaru)
Réalisé par Kentarô Ohtani
Écrit par Yuko Nagata
Avec:Haru, Yû Koyanagi, Seika Taketomi, Dôri Sakurada
2014 Japon / color 98min (ratio 2,35)
監督:大谷健太郎
脚本:永田優子
出演:波瑠、小柳友、竹富聖花、桜田通
2014.10.24 桜坂劇場 ホールBにて
採点( ma note ):20/100


名護まち活性計画有限責任事業組合
この映画は9月20日から桜坂劇場で公開されていたけれど、その前に予告編を見て、あまり観たくはない作品だと感じていた。今回はパスか?!、とも思ったけれど最終日に観にいった。そしてレビューも書きたくはないのだけれど、この映画の制作が「名護まち活性計画有限責任事業組合」が主体となった、いわば町おこしとしてのものだというので、とりあえず感想(批判)を書かせていただくことにした。世間的にはけっこうプラスに評価されているし、「名護に行ってみたくなった」などというコメントも見られるから、町おこしとしての目的は果たしたと言えるかも知れない。しかし、商業的に金儲けを目的とした映画ならばともかく、こういういわば公共的性格をもった映画制作において、「こんなものを作っていて良いのだろうか?」というのが観ての感想だ。仮に「町おこし」に成功したとしても、「映画文化の堕落」、「映画文化の低俗化」をさらに推進するような行為は望ましいことではないと思う。


大人のラブストーリー
予告編を見たときから気になったのは「一軒の食堂を舞台に繰り広げられる切ない大人のラブストーリー」というコピー。(ストーリー等については紹介的には書かないので、公式サイト http://gajimaru-shokudo.com/ を参照していただきたい。)日本が舞台で、日本人が主人公で、「大人のラブストーリー」なんてそんじょそこらにあるはずがないと思うからだ。実際に映画を観ての感想は予想通り。「大人のラブストーリー」ではなく「二十歳代半ばで、体も大人だけれど、精神年齢は子供の、ラブストーリー」だった。まあ宣伝のためのコピーなどというのはどうでも良い(でもあまりに詐欺的なのは問題だが)。ストーリー自体は十分に映画の題材となりうるものだとは感じた。バス停でバスを待っていたみずほ(波瑠)にタクシーを待たせて降りて声をかけた見知らぬ旅行者・隼人(小柳友)がそのままみずほの家(店)にいそうろうしてしまう展開のリアリティーの欠如を批判する向きもあるが、上手く描きさえすれば映画というのは何でもありの世界だから、それはそれで良い。


テレビドラマ
上映が始まる。「がじまる食堂の恋」というタイトルが出る前に1~2分の導入シーンがあって、そこを見ただけで映画館を出たくなった。でも自分は一応見始めた映画は最後まで観るのが主義なので(ごくごく稀に期待を良い意味で裏切られることもあるし)、そのまま観続けた。そして数分後に頭に去来したのは「自分はなんで 100分もの平凡なテレビドラマを、映画館の最前列中央に座って見ているんだろう」という思いだ。テレビドラマと劇映画。これはもちろん映像作品を分類する絶対的二元論ではない。どちらにも良い作品はあるし、テレビ的な映画もあれば、映画的テレビドラマもある。誰とはここでは名指しはしないけれど、「今の日本映画はほとんどがテレビドラマで、映画と呼べるものではない」という識者(映画監督)もいる(このブログ内の別の記事では名指ししています)。調べてみたらこの映画の脚本を書いたのはテレビ界の人だった。映画の中で主人公のみずほが東京にいる恋人の翔太(桜田通)をサプライズで訪ねたときのことを語るシーンがあって、そこでみずほは「上京した」という言葉を使っていた。自分は数年前まで那覇である飲食店をやっていて、この店がやや特殊でお客さんと一緒に話すことが多かったのだけれど、沖縄の若者たちが「上京する」という言葉を使ったのを聞いたことはたぶん一度もない。「東京に行く」と彼ら・彼女らは言う。根拠はあまりないけれど、沖縄以外の内地の地方の人は東京に行くことを上京すると言う場合がある気がする。つまりはこの脚本家の詰めは甘過ぎるのだ。お手軽な仕事と言ってよいかも知れない。まともな映画を作りたければその辺をしっかり詰めるべきであり、そういうお手軽さもテレビドラマ的であって、映画的ではない。

ここから先は映画そのものからはかなり離れた、この映画を観ながら、あるいは見終わって、いろいろ考えた・感じたこと、思い出したこと等を書かせていただきます。比較するようなことで反感を持たれかねないこともあえて書きますが、どちらが良いと言うつもりはないので、その辺は寛容にお願いします。

ボクはアウトサイダー
この日本の社会で自分が一種のアウトサイダーだと感じている。良くも悪くも自分は日本生まれの日本育ち。これまでの人生のほとんどを日本で送ってきた。だから何とは言っても日本的情緒とか、日本的慣習とか、日本人的考え方とか、あるいはもっと下世話に日本食が(も)好きだとか、そういう日本的なものが身にしみついている。ただアウトサイダーとなってしまったのは、小学生の頃の3年間をフランスで過ごしたこと、パリの普通の小学校に通っていたことによる。フランスに行く前にはもちろん日本で小学校に通っていた。突然パリの学校に入れられ、最初は言葉もわからなかったけれど、外国の学校というのはこんなものなんだと特別に違和感はなかった。そして今度はフランスから帰国して日本の小学校に編入したとき、もちろんフランスに行く前に通っていたから日本の学校システムがどのようなものであるかは知っていたが、とにかく違和感を感じて、システムにも先生や級友にも、表には現さないようにしていたが内心では馴染めなかった。苦痛だった。幸せでなかった。帰国早々はまだ住居もととのわず、学校も正式に決まらず、しばらく東京・新橋の第一ホテルに泊まっていた。しかし買物や食事で外に出ると、やはり日本の社会や人々に馴染めなかった。

日本人の精神年齢は10歳の子供
その頃はなんと言っても小学生だから、その違和感の性格や理由を深く考えることはしなかったし、そもそもよくわからなかった。しかし年齢とともに段々にわかってきたのは、日本の(日本人の)社会は「子供」の社会なのではないかということだ。フランスにはまず大人の社会があって、それを前提とした上での子供がいる。ところが、もちろんこれはフランス的発想で見た場合だけれど、日本の社会は子供と大人が渾然一体としていて、その社会を支配しているのが子供的だということだ。いったいいつから日本は子供社会になってしまったのか。あるはもともと太古からずっと子供社会だったのか。マッカーサーは1945年に敗戦日本を占領にやってきたとき、「日本人の精神年齢は10歳だ」と言ったらしい。これは数年前にたしか大林宣彦の映画の中にあったセリフで知った。

世界で最もセックスをしない国民
色々な調査などで日本人は世界で最もセックスをしない国民と言われる。なにぶんデリケートな話題だからアンケート等での回答がまったく正直なものとは限らないけれど、そういうバイアスがあるにせよあるランキングでは世界の 100位に入るか入らないか程度だから、セックスをしない部類の国民であることは確かだろう。たとえば敬虔なカトリック国であるイタリアやポーランド。それも信心の失われた今日ではなく半世紀前でもよい。姦淫を禁じる宗教を持ちながら婚外や婚前のセックスは日本人よりはるかにお盛んだ。もちろん日本では風俗産業、AV産業は旺盛だし、買春ツアーなどというのもある。しかしそれはごく普通の人々の、婚内・婚外・婚前・不倫・行摩(ゆきずり)の、金銭の直接関与しないセックスの欠如を埋め合わせているのかも知れない。伊丹十三氏はかつて「個我の確立のない日本人のセックスは快楽主義でしかありえない」というようなことを言っていた。自分もそう思っていた。個我が確立し各自が「孤独」を生きるからこそ、人と人との究極の触れ合いであり、あるいは自己アイデンティティーの確認でもあるセックスを人は必要とすると。その考えは今も変わっていないけれど、別の言い方をすると、日本人は子供だからセックスを必要としないのではないか。もちろんフロイトの言うところの口唇期やら肛門期など幼児性欲もあるし、子供の自慰行為もあるだろう。しかし小学生や中学生の子供は男女の触れ合いである性的肉体交渉をもたずに何年間も日々を過ごしている。つまり子供にはセックスは必要ではないわけで、日本人は子供だからセックスをしないのではないか。

再び映画『がじまる食堂の恋』に戻って
最初の方に世間的評価は必ずしも悪くないことを書いた。ご当地映画で、最終日だったこともあり会場には少なからぬ観客がいたが、上映が終わって出てくる彼らのほとんどに不満げな様子はなかった。「いい映画だったな。」なんていう声も聞こえた。彼らにとってはお手軽なストーリーをお手軽な表現で語ってくれればそれで「良い映画」なのだ。映画史家の四方田犬彦氏は日本の映画館には若いシネフィルの観客がいないとどこかで書いていた。若い人に限らず、シネフィルという言い方が適当かどうかは疑問だけれど、映画を映画として楽しむ、趣味とする文化が日本にはあまりない。ネットで色々な映画レビューを読んでみると、日本では大半がストーリーとスターに関して好きとか嫌いとかが書かれているだけだ。一方フランスの映画サイトALLOCINEで観客レビューを見ると、たとえば『ハンガー・ゲーム』の場合約3,000のレビューがアップされていて、その中の3分の1か半数が映画批評的で、他作品との比較を語り、シナリオについて、撮影について、照明について、セットについて、演技について、作品やストーリーの持つ意味について語り、分析し、批評している。こういう観客の存在が映画文化を育てる。日本人はいつの間にかテレビ(ドラマ)に毒されてしまった。園子温は日本の映画はどれも賞味期限切れで、ラース・フォン・トリアーの『NYMPH()MANIAC』には今の日本の映画にないものすべてがあるとか言ったらしいが、賞味期限切れである以前に不良品が多過ぎる。そしてお手軽テレビドラマで満足する背景には、日本人が子供であるというのも無関係ではないかも知れない。女優の岸恵子はフランス人の映画監督と結婚してフランスに移り住んだ。彼女がフランスで育った娘と日本に来たとき、娘デルフィーヌ(当時18歳とか20歳頃)は日本のテレビのある時代劇を観て子供向け番組だと思ったらしい。彼女にはけっして大人が観るようなものとは思えなかった。


映画度:☆☆☆☆*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2014.10.28
ラッコのチャーリー


Je crois bien que et j'espère que ce film ne sortira jamais en France, ni au cinéma, ni en DVD. Même si une occasion vous présenterait de le voir, ne perdez pas de temps. Tant ce film est nul. L'intrigue des deux ex-couples.


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)

Liste des critiques en français

2014/10/17

Face à face وحها لوجه Face to Face



Il y a une critique en français sous le texte en japonais.



原題 Titre original :  وحها لوجه Face à face
Réalisé par : Abdelkader Lagtaâ
Écrit par : Nour Eddine Saïl et Abdelkader Lagtaâ
Prise de vue : David Nissen
Langue : Arabe et français
Avec:Sanaâ Alaoui, Younes Megri, Mohamed Marouazi, Bouchra Ijourk, Soumaya Chifa
2003 Maroc, France / color 101min (ratio 1,78)
監督:(アブデルカデル・ラグタア)
脚本:(ヌール・エッディーネ・サイル、アブデルカデル・ラグタア)
撮影:(ダヴィッド・ニッサン)
言語:アラビア語、フランス語
出演:(サナア・アラウイ)、(ユネス・メグリ)、(モハメド・マルアジ)、(ブシュラ・イジュルク)、(スーマヤ・シファ)
(上記人名で発音の不確かなものにはカッコを付した)
2014.10.12 YouTube

この作品は、YouTubeサーフィンをしていて見つけたモロッコ映画。もちろん知らない監督の知らない映画。ちょっとネットで調べて、冒頭を少し観て「いけそう」と感じたので、フランス語字幕がついていたので通して観ることにした。原題のアラビア語を翻訳サイトで調べたら「=(英) face to face、=(和)向かい合って」と出た。監督の名前は「Abdelkader Lagtaâ」。ネットに日本語表記が見当たらなかったので、いちおう「アブデルカデル・ラグタア」としておく。正しい読みかどうかはわからない。Wikipediaにフランス語版と英語版のページがあり、それによるとこのラグダア監督は1948年にモロッコのカサブランカ(モロッコの首都はラバトだが、カサブランカは人口400万人強の国内最大の都市)で生まれ、1968年にモロッコ人として初めてポーランドのウッチ国立高等映画学校(ウッチ映画大学)に入学。ウッチの映画学校といえばワイダ、ポランスキー、スコリモフスキー、キェシロフスキ、ザヌッシ等の映画監督や、リプチンスキー、ソボチンスキ等の撮影監督を卒業生に持つ名門映画学校。時期的に言えばクシシュトフ・キェシロフスキが1964年入学の1969年卒業だから、このラグタア監督はキェシロフスキと一時期一緒だったことになる。ラグダア監督は若い頃から映画に強い興味を持っていたらしいのだけれど、なぜにポーランドの学校に留学をしたかの理由はみつからなかった。ポーランド映画、あるいはポーランドの誰か映画作家が好きだったのかも知れないし、映画を学ぶための専門機関のなかったモロッコで、たまたま入学が出来たのがウッチだったのかも知れない。しかし結果としてはポーランドの映画、「ポーランド学派」とでも言えるものに強い影響を受けたことは確かだろう。この映画は前半が1995年、後半が(映画制作時点の)現在(2002年頃)が時代設定だ。欧米的生活をする都会のエリート層の主人公夫婦を描いた前半部分は、どことなくキェシロフスキの作品を思い出させる。音楽もちょっとズビグニエフ・プレイスネルに似ていないこともない。


カマル(Mohamed Marouazi)はダム等の土木建築技師で、どうも役人らしい。ダム建設にかかわる汚職というのでなくとも、有力者の有利になるように建設地などが変更されている疑惑を調べて報告するようなことをした。そのために上司に呼び出され、別の仕事にまわされてしまう。彼が去ったあとその上司は局長と電話で話し、その中に「奥さんを…」というような言葉があった。カマルは妻アマル(Sanaâ Alaoui)、3歳の娘レイラ(Salma Chifa)と幸せそうに暮らしていた。モロッコ人というと、フランスを舞台とした映画に出て来る貧困層を想像してしまう。大都市周辺部(la cité)の低家賃集合住宅(HLM)に住むような移民だ。文化的にも男性中心主義が顕著。そういうのと比べれば、モロッコ大都市のエリート層の暮らしぶりは(この映画に見る限りでは)より遥かに欧米的に優雅。食事にはワインを飲み、暮らすマンションもかなり高級。服装などもそのまま欧米的だ。アラビア語で話す会話にもフランス語が混ざり、フランス語も話すことができる。しかしそれでも社会の根にある男性中心主義は生きている。アマルは大学生だったが娘の出産で休学。あと1年で卒業できるので復学したいと思っている。夫のカマルは「子供が生まれてから1年待て。」と言っていた。でもアマルが「子供も3歳になったから1年はとうの昔に過ぎたのだから復学して卒業したい。」と夫に言うと、今は「じゃあ娘は女中に世話させるというのか。学校に入るまでまちなさい。」と言う始末。ここでは必ずしも夫に対する不満ではないかも知れないが、社会的通念に対する女の不満があることは確かだ。後半にはカマルの兄ルドゥアン(Younes Megri)がアマルに「自分はお前の夫の兄なのだからお前に対する責任がある。」と言う言葉があり、男が身内の女を支配する構造だ。続く車の中のシーンでアマルはこの義兄に食ってかかる。


この義兄のルドゥアン、たぶん政治犯として服役していたらしい。出張中で自分は行けないので駅に出所した兄を迎えに行ってくれと夫が言うのでアマルは駅に行く。駅前に駐車して車を降りたアマルに男が近づき道を尋ねる。しかしそのままアマルは拉致されてしまう。家には3歳の娘レイラとベビーシッターがいたが、電話がかかりアマルからの伝言ということで、レイラをアマルの夫の姉ジネブ(Houda Rihani)の家に連れて行くようにとベビーシッターは伝えられ実行する。留守になった家では2人の男が家宅捜索をしている(しかし痕跡は残さない)。夫カマルが出張から帰ると妻アマルはまだ帰宅していなかった。カマルは妻を探すが、そのまま彼女は何日も帰ってこない。何日たったのかアマルはひとり長い塀に沿った道を歩いている。行き先は義姉の家。彼女は何日もの不在の理由を話さないが、その理由は後半で明かされる。娘を引き取って家に戻るが、夫は「まだ自分に用があるのなら電話をくれ。」と書き残して新任地に行った様子。彼女が電話をするとそこは役所で、カマル・ガリブなる人物はいないと受付の女性ラシディアが言う。そして局長は「担当のダムを放り投げて、まったく無責任きわまりない。」と言い、解雇された様子だ。アマルが銀行にお金を下ろしに行くと残高は少なかった。3週間前に夫がほとんど出金していたのだ。アマルは仕事を見つけ、家賃のより安い家に移り、娘と二人で暮らしていく決心をする。


こんな経緯だから、夫カマルは妻が自分を捨てて何処かへ行ってしまったと思っているし、妻アマルは夫が自分を見捨てたのだと思っている。このすれ違いによる別離の少し前、夫婦にはちょっとした口論があった。カマルは内密にカナダへの移住の許可を申請していて、その許可が下りた日にアマルは妊娠を彼に知らせた。夫はアマルが電話で妊娠を知らせてきたとそのときのことを語るが、妻は電話ではなく直接会って知らせたと言う。そしてその知らせを聞いて流していた涙は結局のところ何の涙だったのかと。子供が出来たことの喜びの涙か、それとも困難の末に実現したカナダへの移住の夢がアマルの妊娠で壊れた(実行不能になった)ための涙だったのか。なので夫が失踪してアマルは彼がカナダに行ってしまったのでは、とも考えている。不在の数日間にアマルには何があったのか。彼女は誰にもそのことを話さない(最後の方で事実は明かされる)。映画も上司の電話でのセリフ、拉致、見知らぬ人物からのベビーシッターへの電話、家宅捜査という形で、権力構造に楯突いたことで2人が翻弄されたらしいことを暗示するだけだ。


それから7年の月日が流れ、アマルは10歳になった娘レイラと二人、自立して暮らしていた。そんなとき南部に夫カマルがいるらしいという情報を得た義兄ルドゥアンとともに彼女は夫を探す旅に出る(カサブランカは北部の大都市であり、南部は近代化されていない砂漠地域)。



この7年の歳月は、アマルとカマルにとって、止まった時間だったかも知れない。互いに相手の非を責める思いの中で、何らの解決もなされていない。原題の「Face to Face」というのはその過去に向き合うという意味と解釈して良いだろう。映画はこの7年間のことを何も語らない。なぜなら彼らはいわば "生きて" いなかったからだ。もちろん生存はしていたし、アマルについて言えば、仕事を見つけて子育てをしていたのだろうが、それは過去を宙に放り出して、たんに "日常" を送っていたに過ぎない。過去は解明し、同意し、消化し、受け入れなければならない。たとえば彼女は新しいパートナーのことを話しているが、新しく、新たに、「人生」を営んでいくには、過去を調整して離婚を正式にしなければならないだろう。義兄のルドゥアンの過去は反体制の政治活動と逮捕・入獄であり、そのために婚約者を失うというものだ。だから弟カマルを再びアマルに結びつけ、娘レイラを含めた三人家族を修復することは、自分の失敗した人生を埋め合わすことなのかも知れない。だからアマルにとって、そして義兄ルドゥアンにとっても(またまずはルドゥアンにアマルが会いにきていることを知らされたカマルにとっても)、この旅は過去を受け入れて現在・未来を生きることを促すことになる。過去は葬るのではなく、受け入れて自分の中に取り込むのでなければ、現在・未来を真に生きることは出来ない。


ところで権力構造に支配され、翻弄されたカマル(とその妻アマル)。社会と個人の関係ではもちろん何処の世界でもこういう面は存在する。しかし欧米の自由世界では権力による個人に対する陰謀はこういう形ではなされないだろう。ある範囲内で自由なマスコミもあれば、ある範囲内で有効な法秩序も存在する。この映画の第一のテーマではないにしてもここで描かれた権力や社会の機能の仕方は、共産主義下のポーランド等とも似ているかも知れない。たとえば汚職が汚職としてではなく当たり前のこととして暗黙に進行し、知っていてもだれも批判しないしできないのが当然の世界。キェシロフスキが初期ポーランド時代の(劇)映画で描いた世界や、クシシュトフ・ザヌッシの『保護色(Barwy ochronne)』の世界だ。最初の方で書いたこの監督がポーランドの映画学校に留学した理由、あるいは結果としてそのことから受けた影響は、この作品あるいはこの監督の考え方と関連している気がする。そしてその背景の下に描かれるのは人の実存の問題。主演の Sanaâ Alaoui も見事にアマラを体現していた。世界には IMDb にもほとんど情報のないような優れた映画作品がまだまだあるのだろう。この作品も機会があれば多くの方に是非観ていただきたい。


映画度:★★★1/2 / 5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2014.10.17
ラッコのチャーリー



Abdelkader Lagtaâ

J'ai vu dans YouTube un film marocain/français intitulé «Face à face». Je ne connaissais pas le titre du film ni le nom du réalisateur Abdelkader Lagtaâ. Je consulte la Toile. Quasiment aucune information utile. Wikipédia dit que Abdelkader Lagtaâ est un réalisateur marocain, né en 1948, le premier marocain à intégrer, en 1968, l'École nationale de cinéma de Łódź. Il était passionné dès sa jeunesse par le cinéma. Bon. Mais pourquoi il voulait faire ses études cinématographiques à cette école? Je sais que cette école polonaise est prestigieuse avec ses anciens élèves comme Wajda, Polanski, Kieślowski, Skolimozski, Zanussi, Munk, Rybczyński, Sobociński, Zamachowski, Gajos et tant d'autres. Mais cela n'explique pas tout à fait sa motivation. Peut-être appréciait-il les films polonais ou aimait-il un certain cinéaste polonais. Ou bien c'était une seule école de cinéma qu'il eût réussi à rejoindre. Par contre on peut penser légitimement qu'avec ses études à cette école, certes le cinéma polonais lui a donné beaucoup d'influences. Il y était reçu en 1968. Krzysztof Kieślowski y commença ses étude en 1964 et diplomé en 1969. Donc ils y travaillaient ensemble en même période. Regardant le début de ce film «Face à face» j'ai eu un peu l'impression d'une similitude d'atmosphère aux films de Kieślowski ou simplement à ceux de Pologne. Je ne peux nier la ressemblance de la musique à celle de Zbigniew Preisner. Le sujet du film consiste à l'intrigue politique du pouvoir envers les individus et à la vie existentielle.



Casablanca, 1995

Kamal est un ingénieur, sans doute fonctionnaire, et travaille à une construction de barrage. Mais il y a la corruption dont il soumet un rapport. Cela n'est pas apprécié ni désiré par son supérieur. Après que Kamal a quitté le bureau, ce supérieur parle avec le directeur au téléphone et on entend dire le mot «sa femme...». Kamal mène une vie apparemment heureuse avec sa femme Amal et sa fille de trois ans Leila. Une vie des riches citadins. Ce n'est pas la vie des ressortissants marocains qui vivent en France dans les HLM de cités. Ils vivent dans un bel appartement luxueux, le style de vie est celui des riches occidentaux. Ils parlent l'arabe mais mêlé des mots français. D'ailleurs ces élites peuvent parler français. Amal avait interrompu ses études pour accouchement de sa fille. Elle voulait poursuivre ses études (il ne restait qu'une année pour acquérir la licence) mais son mari Kamal lui avait dit d'attendre un an. Et maintenant que sa fille est déjà 3 ans elle veut reprendre ses études. Mais Kamal lui dit, cette fois, d'attendre jusqu'à leur fille ira à l'école. Ce n'est peut-être pas forcément contre son époux mais il y a sans doute une certaine insatisfaction envers la phallocratie sous-jacente de cette société marocaine. À la deuxième partie du film, son beau-frère Redouane lui dit: «Puisque je suis le frère ainé de ton mari, je suis responsable de toi.» Ce sont des hommes et des aînés qui doivent et veulent dominer les femmes de la famille.


Ce beau-frère Redouane, détenu politique, va sortir de la prison. Kamal est en voyage dans le sud, ne pouvant aller lui même le chercher à la gare, en charge son épouse. Quand elle stationne près de la gare et sort de sa voiture, un inconnu l'aborde et lui demande chemin; et elle en est kidnappée. Chez elle une babysitter gardait la petite Leila. Le téléphone sonne et un inconnu transmet à celle-là un message disant de la part d'Amal de conduire Leila chez la sœur de Kamal. Pendant leur absence deux hommes (policiers?) viennent faire une descente discrète, sans en laisser la trace. 


Kamal rentré, sa femme est absente. Elle ne revient pas. Il la cherche mais en vain. Après, le film nous montre Amal marcher quelque part le long d'un long mur. Cela doit être, peut-être, le mur du centre pénitencier. Elle va chez sa belle-sœur, ne fait pas mention de la raison de son absence et rentre avec sa fille Leila chez elles. Et cette fois-ci c'est Kamal qui est absent laissant les mots: «Si tu tiens encore à moi tu sauras me retrouver, KAMAL, 0557-15-90» en dos de l'une de ses photos. Elle appelle le numéro; c'est le bureau. La réceptionniste lui annonce que quelqu'un qui s'appelle Kamal Gharib n'existe pas au bureau. Quant au directeur, il lui dit que son mari ne mérite pas le title d'ingénieur, en abandonnant irresponsablement le barrage. Et allant à la banque elle va connaître que Kamal a fait il y a trois semaines un retrait d'un grand somme, et il ne reste pas beaucoup à leur compte. Alors Amal est forcée à trouver le boulot, déménager à un appartement plus modeste, bref à vivre seule avec sa fille. Dans ce contexte, d'un côté le mari pense que sa femme l'a quitté, et de l'autre la femme croit qu'il l'a abandonée (et peut-être parti pour le Canada). 



Voyage dans le Sud, 2002

Sept années sont passées. Amal vit seule, indépendante, avec sa fille qui a maintenant 10 ans. Son beau-frère Redouane obtient les informations de Kamal, de qui l'on dit qu'il vit dans le Sud. Elle y part avec Redouane pour suivre sa trace et le retrouver.



Le film ne décrit rien de ce qui s'est passé pendant ces 7 années. Puisqu'ils ne vivaient pas, en quelque sorte. Certes ils existaient, elle a travaillé et élevé sa fille, mais ce n'était qu'un simple quotidien laissant le passé en l'air. Il faut éclaircir, consentir, accepter le passé. Pour une nouvelle vie, elle parle d'un nouveau partenaire, il faut régler le passé, par exemple en divorçant à Kamal. Quant à Redouane, il a échoué sa vie. Il menait des activités dissidentes et était en prison. Il en a perdu sa fiancée. Et peut-être il veut le compenser en contribuant à renouer son frère à Amal et reconstruire leur famille en trois avec leur fille. Donc leur voyage, la recherche de Kamal devient celle de leur passé. De même pour Kamal, une fois annoncé la visite de sa femme, il doit confronter à son passé.



Affinité (Pologne?), société et individu.

Il existe toujours, dans toutes les société, une quelconque soumission (légale ou inégal) des individus pour le système social. Kamal et Amal sont pour ainsi dire manipulés par ce système. Cependant dans les pays libres occidentaux, de même au Japon, le contexte ne serait pas le même. Il y a des médias qui accuseraient cette sorte de corruption, et la justice pour y faire recours. Mais ici la corruption n'est pas une évidence qu'on peut accuser, ces escroqueries politiques constituent le système même. Je trouve ces conditions similaires à celles de la Pologne communiste. C'est au cinéma de l'inquiétude morale en Pologne que je pense. Et c'était justement (en plein milieu) à la période du cinéma de l'inquiétude morale que ce réalisateur a fait ces études cinématographiques à Łódź.


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.

(écrit par racquo)

Liste des critiques en français



2014/10/05

複製された男 Enemy



Il y a une analyse en français du film sous le texte en japonais.



原題 Titre original : Enemy
Réalisé par Denis Villeneuve
Écrit par Javier Gullón, 
d'après « L'Autre comme moi » de José Saramago
Prise de vue : Nicolas Bolduc
Avec:Jake Gyllenhaal, Mélanie Laurent, Sarah Gadon, Isabella Rossellini
2013 Canada / color 90min (ratio 2,35)
監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ
脚本:ハビエル・グヨン
原作:ジョゼ・サラマーゴ『複製された男』
撮影:ニコラ・ボルデュク
出演:ジェイク・ギレンホール、メラニー・ロラン、サラ・ガドン、イザベラ・ロッセリーニ
2014.09.22 桜坂劇場 ホールC
2014.09.28 桜坂劇場 ホールA
2014.10.01 桜坂劇場 ホールA
2014.10.03 桜坂劇場 ホールAにて



この映画は4度も観にいってしまった。映画としては1回で堪能できたのだけれど、映画自体が色々な解釈・見方を許す作品なので何度観てもそれなりに新しい発見があるのと、それよりもなによりもアンソニーの妻ヘレンを演じたサラ・ガドンが魅力的で、彼女見たさに通ってしまった。それに加えてこの作品は90分。2時間の映画だったらこんなに何度も観なかったかも知れない。マルグリット・デュラスも言っているように90分というのは実にヒトの生理に合致した程よい長さなのだ(←これは最近多い無駄に長過ぎる映画に対する批判)。


大学での同じ内容の講義の繰返し、家に帰ってレポートの採点や恋人マリー(メラニー・ロラン)との食事やセックス。真面目で、外出することもあまりないと言っていたけれど、映画を観ることもほとんどないし、何の変化もない単調な日々。そんな生活を送る歴史教員アダム(ジェイク・ギレンホール)は同僚教員の薦めで『道は開かれる』なるカナダ映画、つまり地元製作の映画をレンタルDVDで観る。アダムは夢の中でその映画をもう一度観る。ここでちょっと示唆的なのは、このシーンだけ画面全体に映画『道は開かれる』が映ること。ここ以外ではノートパソコンに映ったDVDの画像だ。最初は見過ごしていたあることに夢の中で気づき、アダムが慌ててDVDを確認すると、そこにはなんと自分に瓜二つの役者が端役で出演していた。クレジットロールで役者の名前を確認し、ネットで調べると芸能事務所ヴォルガ所属のアンソニー・セント・クレアであることを知る。セント・クレアが出演する他の2本の映画のDVDも借りてきて観る。やはり自分にそっくりだ。


でもどうだろう。自分の生き写しのような役者を映画の中に見つけたからといって我々はそんなに悩むだろうか。かえって面白がるのではないか。仮に実は双子の兄弟がいて、それを親が隠していたと想像したとしても、そんなに重大なことだろうか。しかしアダムは自分の存在自体を揺るがし、アイデンティティーの不安を感じるほどに悩み始めてしまう。役者が所属する事務所に行くと受付の人は何の疑いもなくアダムをその役者だとして接する。実名がアンソニー・クレアであると知って家に電話をすると彼の妻らしき女性が声のアダムを夫アンソニーだと思ってしまう。その後アダムは直接アンソニーと電話で話すことになるが、アンソニーの方は瓜二つだという男からの電話に必要以上に苛立つ。



やがてわかってくるのは、この2人の瓜二つをどう解釈するにせよ、品行方正な生活を送るアダムは超自我的存在であり、自由きままなに生き欲望に忠実なアンソニーはイド(エス)的存在であること。しかしアダムは内なる欲望を目覚めさせられ(映画を観た後のマリーを不快にさせたたぶんサディスティックな、少なくも自己本位な性行為や、アンソニーに会うために行ったホテルの廊下でセクシーな洋服の女を目で追うこと)、アンソニーの方にとっては、自分の対極にある品行方正なアダムの存在は自分に改心を迫るものとしてその存在を疎ましく感じる。それはアンソニーが改心など気にもかけていないからではなく、どこかで改心しなければならないという罪悪感を持っているからだ。つまりどちらにせよ、アダムにとっては内なるアンソニーになりたいという欲求、アンソニーにとっては内なるアダムであるべきだという思い、そんな内なるもう一つの自分(映画の原題の「敵」)との葛藤を描いたのが、この映画の基本的にテーマであり、そういうものとして観ればまずは十分だ。


(以下はネタバレ全開の内容解釈)
でもね、この映画を何度か観ていて気になったのは、歴史教員の方の「アダム」という名前の使われ方。冒頭でギレンホールが母親からの留守電を聞いているシーンでは「アダム、お母さんよ…」ってまずアダムの名が出てくる。次はたぶん分身の俳優アンソニーに電話をするシーンで「自分はアダム・ベルっていう歴史教員」と名乗る。あとはアンソニーと妻ヘレンがネットでアダム・ベルなる歴史教員を調べるパソコン画面上の「アダム・ベル」と、ヘレンにとってはそのきっかけとなる夫の書いたメモ。アダムが最初の方でアンソニーの妻ヘレンと電話で話したシーンではアダムはヘレンに名前は言わない。恋人のマリーもたしか一度もギレンホールのことを「アダム」とは呼んでいなかった気もする。ヘレンが大学に例の男に会いに行ったことを夫に告白するシーンでも、「あの男」とか「歴史の教員」という言い方をしていて、「アダム・ベルに会ってきた」とは言わない。


一方「アンソニー」の方は、芸名のアンソニー・セント・クレアや名字だけで「クレアさん」などと呼ばれるのも含めて、本物・分身両方のギレンホールは何度も、色々な相手(事務所の受付、アダム、妻ヘレン、マンションの守衛など)から「アンソニー」として呼ばれている。もちろん芸能事務所ヴォルガのネット・サイト上や秘密クラブの封筒にもこの名は登場する。そして最後のアンソニーの部屋での夜から朝にかけての二人のシーンは、帰ってきて誰もいないはずの部屋に人気を感じて「アンソニー?、アンソニーなの?。」という彼女のセリフで始まる。そして本物なのか偽物なのか、ギレンホールは眠られぬ夜にソファーでヘレンに謝り、和解(?)の性交渉を持ち、その間にもう一人がマリーと事故死するのを思い描き、翌朝にはアンソニーの役におさまってしまう。これらのことから、多くの人が言うようにアダムとヘレンが現実世界で夫婦で、アダムが夢や妄想の中で作り上げた分身がアンソニーなのではなく、ヘレンの夫はアンソニーであり、そのアンソニーが作り上げた分身がアダムではないかと思われる。


こう考えるのには他にも理由がある。まずはアダムという名だけれど、フロイト派精神分析ではアダムは超自我を象徴する。欲動を抑えられないアンソニーが自分を制御するものとして想定した超自我的分身がアダム。別人であるアダムがマリーと関係をもっていることにしてしまえば、アンソニーは浮気をしていることにはならない。浮気願望を抑え、愛人とも別れて妻のもとに戻ろうという葛藤が映画のテーマで、欲望(リビドー)の人アンソニーが妄想で作り上げるのが理性(道徳)の人アダムであって、その逆ではないはずだ。そしてなによりも、非常に解り難くて見逃しやすいのだけれど、映画の画面にもそれを示唆する2カットの連続がある。アダムがいよいよアンソニーと会うためにホテルに向かう直前のシーン。裸で頭が蜘蛛の女が逆さに廊下を歩いてくる映像があって、それは夢だったと示すがごとくアダムはベッドで目覚める。デジタルの目覚まし時計が背景にあるのだけれど、これはアダムがパソコンで分身の出演している映画を調べて翌朝講義に遅刻するときと同じ配置で、アダムの部屋だ。ところが次のごく短いカットではギレンホールの様子は直前の続きのようだが、枕元のナイトテーブルに電気スタンドとデジタル時計があって、配置が違う。これはアンソニーの部屋(最後の方でヘレンとベッドで横になっている部屋)なのだ。で次のカットはホテルへ向かうアダムの車中。夢から目覚めたアダムを何気なくショットの切り替えでアンソニーに置き換え、二人いるという「二人」の存在を曖昧にすると同時に、アンソニーの方を後から出してしめる形にしている。最初半分がちぎれた写真で、最後に破れていない全体が額に収まって出てくる写真も彼がヘレンと写っている写真だ。アダムが妄想上の分身ならば現実の妻ヘレンと写真に写っているはずがないから写真はちぎれてヘレンが写っている部分はなかったが、ヘレンがしっかり写っているのはアンソニーの部屋にあるのだからアダムではなくアンソニーだ。さらにアダムとアンソニーが別人物ならば半分ちぎれたアンソニーの写真をアダムが持っているはずはないわけで、実際に写っていたのがアンソニーなのだからアダムこそが空想・妄想・夢想上の分身だ。


そんな風に考えて、自分は、あえて、あくまでもあえて解釈するならば、この映画では妻のヘレンが登場するシーンが現実で、それ以外のほとんどはアンソニーの夢や妄想、あるいはアンソニーの中で歪められた現実や記憶なのではないかと思う。アダムがアンソニーの家に電話をしてヘレンと話す部分について言えば、何らかの偽装工作を意図した妻への電話ととらえても良いし、改心しようとしているアンソニーが作り上げてしまった妄想上のアダムになり切っている姿かも知れない。最後の方で額に入ったヘレンと写った写真をしげしげと見つめるのは、半分ちぎられて自分しか写っていなかった写真にヘレンが一緒に写っているのに驚くアダムではなく、かつては(髭がない)浮気をしてヘレンを苦しめることもなくヘレンと幸せだったなぁ、というしみじみとした思いのアンソニーだ。プールから帰ってきて先にベッドで休んでいるヘレンのもとにおずおずといて、ヘレンに促されて恐る恐るベッドに入るギレンホールを見て観客はアンソニーのふりをしたアダムの不安だと思ってしまうが、浮気がバレて改心して妻の許しを乞うという、妻の反応を探るような、アンソニーの決まりの悪い思いともとらえられる。ヘレンが「学校はどうだった?」と問うところは、「あなたはアンソニーではなくアダムでしょう?」というヘレンのほのめかしと感じてしまうが、「歴史教員アダムを作りあげたでしょ」という含みでアンソニーに向けられたと解釈すればよい。「今夜はこのままいて」というヘレンの言葉も「あなたはアンソニーでなくアダムだけれど、でもこのままいて」という意味ではなく、たんに「あなたを許すから今夜はいて」という意味だ。だからこの後に和解のセックスを二人はするわけだけれど、アンソニーが必ずしも毎晩は家にいなかったらしいことは別の場面で示されている。それはアンソニーがヘレンに「ブルーベリーを買っておけ、って一昨日言っただろ」というセリフだ。「昨日」ではなく「一昨日」と言うのはちょっと不自然で技巧的なセリフと感じられるが、昨日はブルーベリーを買ったかどうかアンソニーは確認していないということで、これは昨日アンソニーは家に居なかったともとらえられるのだ。


この解釈、つまりヘレンの登場するシーンは現実であるという解釈をちょっと困難にするのは、ヘレンが大学でアダム・ベルと二言三言言葉を交わすシーンだ。ただここの(映画の他の部分でもアダムとアンソニーと別の誰かは同時には存在しない)「講義に行かなくては」とアダムが去っていくシーンでは、ヘレンがスマホで夫アンソニーに電話をかけ、夫が電話に出る直前にアダムの姿は建物の中に消えている。だから、たとえば、「アダム・ベル」というのは実在する全く無関係の歴史教員で、なぜならヘレンもネットで確認するのだし、その名をアンソニーが語り、そのアダムに自分が成り切ったとも考えられる。アンソニーがパソコンで調べていたシーンについて言えば、あれは電話をしてきてアダム・ベルと名乗った男の素性を調べていたのではなく、成り代わる分身に適当な実在人物をの名を探していたのだ。アンソニーはアダム・ベルという歴史教員を選び、それをメモした。そのメモをやがてヘレンが盗み見ることになる。冒頭の方でアダムが教室で講義をするシーンでは学生の姿があるけれど(これはアダムを作ったアンソニーの妄想)、このときのアダムは無人の教室に入り、アンソニーからの電話を受け、外でヘレンに会っている。つまり電話でアンソニーと話しているのだからアダムとアンソニーが映像と音声で二人存在しているときには、第三者である学生は登場しない。


冒頭でギレンホールは「アダム、お母さんよ…」で始まる留守電を聞いているのだけれど、そこで(この威圧的で虚勢する、でも息子に対する愛情豊かな)母は自由気ままに生きていることを気にして(批判して)いる。これを聞くのは実際はアンソニーなのだけれど、彼の妄想の中では超自我的アダムの方として聞くのが気が楽なわけで、だから彼の妄想・記憶(あるいは歪められた現実)の中では「アンソニー、お母さんよ…」ではなく「アダム」となっている。このときのギレンホールには髭があり、事務所の受付との会話でわかるように6ヶ月前の髭のないアンソニーではない。つまり髭のある現在のアンソニーは、後の母との会合で言われるように大学教員というリスペクタブルな(立派な)仕事にはついていないということだ。だから大学教員アダムというのはアンソニーの妄想であり、母との会合も内容的に改変された妄想だ(妄想・空想だからブルーベリーの好き嫌いの違いがあってもいいし、かえって二人が別人であると思いたいアンソニーには好都合)。母は「三流の俳優のことなんてもう忘れて」と言うけれど、これは「気ままな生活」をする三流俳優がアンソニーの実の姿だということだ。そんな三流俳優にあんな高級マンションに住めるはずがないという指摘をする向きもある。でもそれは欧米の有産階級のことを知らない発想かも知れない。アダムが母と会って食事をするシーン。あれは母の家なのか。だとしたら母は画家か何かでそのアトリエなのか。それとも画商とか何かなのか。とにかく母が金持ちであることは見てとれる。一般庶民ならば三流俳優業を非難したりもしないかも知れない。父親の姿は見えない映画なのだけれど、既に死んでいて、かなりの財産を息子アンソニーは相続しているという想定は全く無理がないと考えられる。母を演じた六十歳過ぎのイザベラ・ロッセリーニの実年齢を考えても、その夫が既に死んでいるというのはごく自然だ。


アダムはアンソニーの部屋に守衛に鍵を開けてもらって入ると、アンソニーの服に着替え、アダムの服をクローゼットにしまう。観客にはアダムがアンソニーに化ける行為として見せるのだけれど、これも既に浮気症を克服したと思いたいアンソニーが、もはや必要のなくなった超自我的分身アダムからアンソニーに戻る図だ。そしてその必要のなくなったアダムを消すことと愛人マリーとの決別を意味するのが事故によるこの二人の抹消。これはアンソニーの妄想で、もともと存在しないアダムの抹消と愛人マリーとの決別の象徴だから事故後の二人の姿は登場しない。この事故で消えるのはアダムに化けたアンソニーではなく、指輪をしていないアダムそのものだ。そもそもアダムは実在しない妄想上の分身なのだから、彼の乗っている車も実在していない。翌朝のラジオの事故ニュースも全く無関係の事故の報道に過ぎないから詳細が告げられる前に変局されてしまう。


この映画を難解にしているもう一つの要素は「蜘蛛」かも知れない。ヴィルヌーヴ監督は蜘蛛は母親の象徴だと言う。じっさい蜘蛛という虫は擬人化して捉えると非常に母性的らしい。一般論というわけではなくこの映画の中でという意味で言うと、女性には2つの面がある。母としての面と、男の欲望の対象となる女としての面だ。そして母を象徴するのが蜘蛛で、女を象徴するのがハイヒール。アンソニーが市電に乗ったマリーをつけるシーンで、アンソニーの視線はマリーの脚部から下がってヒョウ柄のハイヒールに至る。ちなみにこのシーンはいつのことか実は不明だ。マリーを演じるメラニー・ロランの質問にヴィルヌーヴ監督は「アダムと彼女のつきあいは4ヶ月」と答えたらしいが、これはその4ヶ月前のことで、アンソニーが惹かれた女の後をつけ、その後アプローチして彼女と愛人関係(浮気)になったのかも知れない。たんにアダムの恋人の身元を知るための追跡ならば、彼女がオフィスの席に着いた時点で目的は達成されているわけで、窓の外に座って待つ必要はないはずだ。たぶん昼休みまで彼女は出てこないだろうから。アダム(実はアンソニー)が管理人に鍵を開けてもらってアンソニーの部屋に入るシーンでは、クローゼットを開けてヘレンのハイヒールを手に取る。今は妊娠でお腹が大きく(つまりは母)ヒールの高い靴を履いていないヘレンなのだけれど、浮気をやめて妻の元に戻ろうというアンソニーは母ではなく女としてのヘレンを思い起こしていると言える。


アダムが母親と会った後に写されるトロントの風景には巨大な蜘蛛がビル街にいる。母親が「三流役者のことなど忘れて」と言ったのは、気ままな生活や浮気の人生の否定、つまりはこの時点でアンソニーが象徴する欲望の人生の否定だから、その葛藤に悩むアンソニーに蜘蛛は重くのしかかる。上に書いたように女性を母と女の2つに区分けするのに、並列的ではなく対立的に捉えるならば、母性を象徴する蜘蛛は男の性的欲望に対してアンチとなるわけで、ここではアンソニーの罪悪感を象徴するものともなる。ビル街の巨大蜘蛛もそうだし、張り巡らされた市電の架線を蜘蛛の巣に見立てたりしているが、これは改心しなければならないという重圧であり、その葛藤の中のアンソニーを罪悪感で苦しめる象徴となる。冒頭の秘密クラブでは女がハイヒールで蜘蛛を踏みつぶそうとしていたが、これも罪悪感と欲望の葛藤だ。最後の朝のシーンでは妻に謝り、和解し、改心したと思っているから、写されるトロントの街には既に巨大蜘蛛はいない。


しかしその後アンソニーが上着のポケットに見つけるのは封筒に入った秘密セックスクラブの鍵だった。エレベーターでの管理人との会話からクラブの鍵が変更され、会員には新しい鍵が送付されていることを我々は知っている。やはりアンソニーの性癖は治ってはいなかった。鍵に誘惑された彼は「今夜出かける」とヘレンに告げる。これがアンソニーのふりをしたアダムであるならば、管理人との会話で鍵が何であるかをおおかた想像しているにしても、アダムはクラブのある場所も知らないはずだからクラブに行くことはできない。だからやはり彼はアダムではなくアンソニーだ。冒頭のシーンでアンソニーは管理人を伴ってクラブに行き鍵を刺して秘密のドアを開ける。鍵を持っているのはアンソニーで、後の管理人はただ着いて来ているだけという感じで、鍵を持っていない風だ(エレベーターの中で新しい鍵が送られてきていないことを管理人はこぼしている)。つまりはこの冒頭のシーンは朝のシーンの後のことと見ることもできるし、最初に逆戻りしてループを構成していると言うこともできる。しかし部屋でアンソニーを待っていたのは巨大蜘蛛に変身したヘレンだった。アダムという分身を作ってまで改心しようとしたアンソニーだったが、結局のところ変わることは出来なかった。再びそこには罪悪感を与え、改心を迫る蜘蛛がいた。だからこの巨大蜘蛛を見たアンソニーの表情(映画のラストショット)は、結局葛藤を解消することが出来なかったというアンソニーの徒労感を示す苦笑のようなものだ。



追記:解釈・分析にうつつをぬかしてしまって作品自体の評価を書き忘れてしまった。このヴィルヌーヴ監督は『渦 (官能の悪夢)』を観て関心をもった監督さん。次に観たのが『灼熱の魂』で、『プリズナーズ』は残念ながらまだ観ていないのでこの『複製された男』が3本目ということになる。この作品はよく出来ているし。ただ上で長々と分析を書いてしまったように関心の中心は「謎解き」のようなものになってしまう。でも内容自体は(?)というと、それほど深みのあるものではないし、つきなみと言ってもよい。そこが残念な作品だ。

映画度:★★★★/5*

*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。



2014.10.05
ラッコのチャーリー






D'abord une explication simple

Adam (Jake Gyllenhaal), un professeur mène une vie un peu morne mais calme et paisible avec sa petite amie Mary (Mélanie Laurent). Un jour en regardant un film en DVD il trouve un acteur qui lui ressemble parfaitement: un sosie. Il cherche cet acteur qui s'appelle Anthony Claire et essaie de contacter. Le fait qu'il existe un sosie ébranle psychologiquement l'existence de l'un et de l'autre. On a l'impression qu'Adam, homme de moral, soit le Surmoi et Anthony, homme de désir, soit le Ça d'une même personne. Les deux hommes sachant qu'il existe leur sosie de caractère opposé, le désir intérieur et caché de l'un est stimulé et la moralité de devoir devenir un mari chaste de l'autre le saisit. Donc tous les deux sont troublés d'un conflit intérieur. Voir ce film comme ça est déjà assez intéressant.

Mais je voudrais un peu approfondir. Je vais écrire « une » analyse à moi de ce film. Elle spoile forcément tout le film et je vous conseille de ne la lire qu'après avoir vu le film.


Le nom: Adam

Le film commence par la voix de sa mère enregistrée au répondeur, que Jake Gyllenhaal écoute. La voix dit: «Adam chéri, c'est ta mère...» Ensuite quand Adam téléphone à Anthony il se nomme: «Je suis Adam Bell, un professeur d'histoire...». Anthony et sa femme Helen (Sarah Gadon) consulte les pages Web pour identifier ce professeur et il trouvent le nom d'Adam Bell sur ces pages. D'ailleurs pour Helen c'est à partir d'une petite feuille de papier sur laquelle son mari a noté «Adam Bell, professeur d'histoire» qu'elle va commencer sa consultation sur le Web. Lorsqu'Adam parle avec Helen au téléphone il ne se nomme pas. Je crois que Mary n'a jamais appelé Jake Gyllenhaal avec sa prénom Adam. Tout d'abord elle ne parle que très très peu dans le film. Quand Helen avoue à son époux qu'elle est allée le voir à la faculté, elle parle de lui par «cet homme» ou «le professeur de l'histoire», et jamais «Adam».


Le nom: Anthony

Par contre le nom d'Anthony, y compris Anthony Saint Claire ou Mr. Claire, est appelé de maintes personnages (concierge de bureau Volga, concierge de l'appartement, Adam, Helen). Aussi ce nom se figure sur le Web et sur l'enveloppe du club secrète. Vers la fin du film, la séquence finale commence par l'appel interrogatif de Helen qui vient de rentrer: «Qui est là? C'est toi Anthony?». Adam ou Anthony, ne pouvant dormir, présente ses remords à Helen, ils s'embrassent et font l'amour sur le canapé, il s'imagine de l'accident qui tue son sosie et Mary, et le lendemain matin il prend place d'Anthony. J'ai lu quelques analyses de ce film selon lesquelles Adam et Helen sont époux et épouse dans le monde réel, et Anthony est un sosie imaginaire créé par le délire d'Adam. Mais tout au contraire le mari de Helen c'est Anthony, et le délire a créé son sosie qu'est Adam. 


La lutte d'un homme qui tente de redevenir fidèle à son épouse

Le nom d'Adam symbolise le Surmoi au sein de la psychanalyse freudienne. Luttant avec les désirs intérieures (le Ça) qu'il ne peut facilement maîtriser, le délusion d'Anthony crée le sosie Adam. Il y a une suite intéressante de deux plans très courts; juste avant la scène où Adam va voir Anthony à un hôtel, Adam se réveille dans la nuit après avoir vu une rêve d'une femme nue à tête d'araignée marcher à l'envers. Quand il se réveille sur le lit, une horloge digitale se trouve au fond de la chambre. Cette disposition est celle de la chambre d'Adam. Juste après ce plan suit un autre plan similaire, dont l'atmosphère, la lumière, la position de Jake Gyllenhaal se ressemblent, mais la disposition du lit et de l'horloge est changée. Il y a une table de nuit au chevet, et sur laquelle se trouvent une lampe et l'horloge numérique. Celle-là est la chambre d'Anthony. C'est quand même assez difficile de les distinguer l'une de l'autre. Mais en remplaçant très subtilement et discrètement la chambre d'Adam par celle d'Anthony, la différence ou la distinction, et peut-être l'existence de deux être à part deviennent floues et vagues. Et puisque Anthony, le dernier qui était sur l'écran avant la scène suivante de rencontre, on peut penser que c'est Anthony qui va à l'hôtel voir son sosie imaginaire Adam qu'il a lui-même inventé.



La photo

Lorsqu'Adam fait la recherche de l'identification de son sosie sur le site-web du bureau Volga où l'acteur s'appartient, il cherche sa propre photo sans barbe pour mieux se comparer à cet acteur. Il la trouve une mais cette photo est déchirée, et manque la moitié droite. Mais à la moitié gauche restante, il se figure Jake Gyllenhaal sans barbe. Adam compare ce visage (son visage?) sans barbe à celui présenté sur le Web comme la photo de l'acteur Anthony Saint Claire. Bien sûr que les deux visages se ressemblent. Pourquoi déchiréé? C'est parce qu'Adam étant un sosie imaginaire, il n'est pas marié à Helen, il n'a aucune relation avec elle. Puisque la photo intacte, dans une cadre, avec Helen à droite se trouvera dans l'appartement d'Anthony et de Helen, cet homme qui se figure ne peut être qu'Anthony. Et en plus si Adam existe, à part, indépendamment d'Anthony, pourquoi Adam avait cette photo (déchiréé)? De là on doit conclure que c'est Adam qui est la sosie imaginaire créé par le délire d'Anthony.


Helen: clé de la réalité

De tout ce que j'ai écrit ci-dessus, je pense que toutes les scènes (aussi peut-on dire seules les scènes) où apparaît Helen sont réélles, et les autres sont l'illusion, la rêverie d'Anthony ou la réalité, la mémoire abîmées par son délusion. Quand Adam parle au téléphone avec Helen, Anthony se comporte comme sosie Adam dans son délire. Vers la fin du film Jake Gyllenhaal entre dans l'appartement d'Anthony, dont la serrure de la porte déverrouillée par le concierge, il regarde attentif le cadre de ladite photo. Les spectateurs du film sont habilement invités par le réalisateur d'intepréter son comportement, ici, représentant l'étonnement d'Adam en trouvant la même photo intacte sur laquelle il se figure avec Helen. Ne soyons pas dupes. Cela représente une certaine émotion d'Anthony (qui tente de se concilier, de redevenir fidèle envers sa femme) en se souvenant d'un passé heureux avec Helen. Quand Helen rentrée fatiguée de la piscine se couche seule dans le lit, Jake Gyllenhaal est debout indécis au seuil de la chambre, incité par elle il s'allonge timidement à côté d'elle. Ici, cet air penaud de Jake Gyllenhaal n'est pas la conséquence du fait qu'il n'est pas son époux Anthony en étant Adam, mais montre le désarroi et la gêne d'Anthony de prier pardon à sa femme de son infidélité. «Comment était aujourd'hui à la faculté?» lui demande Helen. Les spectateurs dupes pensent que Helen a dit ces mots en sachant que l'homme allongé à côté d'elle n'est pas son mari mais son sosie Adam. Cependant je crois plutôt qu'elle voulait dire: «Je sais bien qu'Adam, professeur d'histoire, est ta création.» Dans l'insomnie, sur le canapé, Jake Gyllenhaal présente ses excuses à Helen et elle lui demande de rester la nuit ensemble. Demander de rester sonne un peu curieux si ici Jake Gyllenhaal était Anthony, puisqu'il est chez lui. Et les spectateurs sont induits d'interpréter ce qu'elle a dit par quelque: «Je sais que tu n'est pas Anthony mais Adam, tout de même je voudrais que tu sois avec moi cette nuit.» Et moi j'entend par: «Je te pardonne et reste avec moi ce soir.» Et ils font l'amour, de réconciliation en quelque sorte. D'ailleurs une autre scène a déjà fait allusion qu'Anthony était absent de temps en temps. Lorsqu'il rentre du jogging, ne trouvant pas de myrtilles dans le frigidaire, il reproche sa femme en disant: «Je t'ai dit avant-hier de les acheter.» Ne trouvez-vous pas un peu curieux et artificiels ces temes d' «avant-hier» et non «hier»? Certes voulait signifier le réalisateur (ou scénariste) qu'il était absent la veille.


Les deux sosies ne peuvent exister à la fois avec quelqu'un d'autre

Au début quand Adam donne le cours d'histoire, il existe des étudiants dans la salle. Mais quand il reçois une appelle de son sosie, la salle est vide sans un seul étudiant. C'est parce qu'ici il existe déjà deux sosies en même temps. L'un c'est la présence par la voix d'Anthony et l'autre la présence par l'image et voix d'Adam. Après cette conversation téléphonique Adam fait la rencontre d'Helen et lorsqu'il la quitte en disant «Je dois aller faire cours», elle appelle son époux en sortant son smartphone. Mais juste avant la voix d'Anthony lui répond «Allô, qu'est-ce qui se passe ma chérie?» Adam disparaît derrière le mur d'entrée. Aussi, quand Anthony à motocyclette guette Adam et Mary à la sortie de l'appartement, ces trois personnes ne sont jamais en même temps dans un même cadre. Je pense que le professeur qui s'appelle Adam Bell existe réellement, puisque Helen en voit le nom quand elle consulte le Web. Mais il n'est pas le sosie d'Anthony et il ne doit pas du tout ressembler à Anthony. C'est toute une autre personne. C'est pour donner la réalité à son sosie ou à son délire, qu'Anthony a choisi au hasard ce professeur d'histoire. De là, on peut même penser que quand il consultait en PC, il ne cherchait pas à identifier un certain Adam Bell qui lui a téléphoné et qui s'est nommé Adam Bell, professeur d'histoire, mais plutôt Anthony cherchait un nom pour utiliser. Il a choisit Adam Bell par hasard, et il a noté le nom et profession sur une petite feuille de papier que Helen va voir.


La mère

Tout au début du film, Jake Gyllenhaal écoute le répondeur. Sa mère commence par: «Adam chéri, c'est moi ta mère...» Cette mère, imposante et castratrice, mais sans doute qui aime son fils, lui reproche la façon libre de vivre sans retenue. Certainement c'est Anthony qui écoute le répondeur. Sa lutte interne, c'est la lutte entre le devoir et le désir. Il va devenir père, et à cet occasion peut-être qu'il doit avoir une position stable et respectueuse (comme dira sa mère), finie la débauche et fidèle à sa femme. Étant difficile d'accepter ce changement, son inconscience crée un sosie qu'est Adam, qui soit un accomplissement de sa correction nécessaire. Anthony ne veut pas écouter sa mère lui reprocher et il fait entendre à Adam. C'est pourquoi dans l'imaginaire ou délire, Anthony substitue «Adam...» à «Anthony chéri, c'est moi ta mère...» Ici Jake Gyllenhaal a sa barbe. Ce n'est pas un Anthony sans barbe il y a 6 mois (comme dit le concierge du bureau). Et il n'a pas encore (lors de l'écoute de répondeur) une profession stable et respectueuse. Donc Adam, le professeur (position respectueuse), est l'imagination d'Anthony. La scène de la réunion avec sa mère chez elle est imaginaire ou une mémoire déformée. Et puisque imaginaire la différence de goût (l'un aime les myrtilles mais l'autre pas) n'a rien d'être surpris. Tout au contraire, il est favorable pour distinguer les deux êtres; Anthony a besoin d'un autre. Sa mère lui dit d'oublier cet acteur de troisième zone, mais le réel c'est qu'il est justement un acteur de troisième zone. 


Vers la scène finale

Jake Gyllenhaal (Adam ou Anthony) arrive en taxi à l'appartement d'Anthony, n'ayant pas la clé (s'il est Adam c'est bien naturel mais s'il est Anthony il a oublié sa clé, comme il le dit), la serrure déverrouillée par le concierge (qui le croit légitimement Mr. Claire), entre dans l'appartement, met les vêtements d'Anthony, range les vêtements (peut-être d'Adam) qu'il portait dans le placard. Adam se déguise à Anthony, croit-on. Mais non. Anthony qui veut finir le dédoublement, va effacer le sosie Adam dans un accident de voiture (imaginaire), avec ce même accident il va vérifier la fin de la relation adultère avec Mary; il change de vêtements pour redevenir à Anthony lui-même. Puisque cet accident à pour le but de supprimer le sosie et que Mary n'est pas morte en réalité, les cadavres des deux passagers ne sont pas montrés à l'écran. Le lendemain matin la radio annonce un accident de voiture. Mais ce n'est pas l'accident qui a tué Anthony et Mary, puisque cet accident est imaginaire et n'existe pas en vrai. Alors avant que la radio en annonce les détails, la chaîne est modifiée (changement de fréquence).


Hauts talons

Denis Villeneuve a dit quelque part que l'araignée symbolise la figure de mère ou maternité. Je ne la connais pas très bien mais en personnifiant le comportement, l'araignée sont très maternelles. On peut distinguer les deux aspects de l'être féminin. Un côté maternel et l'autre qui est l'objet du désir sexuel de l'homme. Et ici, l'araignée symbolise le premier aspect et les chaussures à haut talon le deuxième. Quand Anthony poursuit Mary, dans le tramway, il regarde ses chaussures à talon. En appercevant Mary dans la rue, attiré par elle et il l'a traquée. Il l'a abordé après et ils sont devenus amants sans doute. S'il voulait simplement savoir l'identification de la fiancée du professeur d'histoire, il aurait fini sa poursuite sachant où elle travaillait. Mais il l'attend assis dehors. Même si elle ne sortira pas sans doute jusqu'à midi. Quand Adam (Anthony en réalité) entre dans l'appartement d'Anthony, il prend à la main une des hauts talons de Helen. Elle est enceinte de 6 mois (aspect maternel) et elle ne chausse pas pour l'instant les hauts talons. Anthony qui tente de réconcilier avec son épouse en finissant la relation adultère avec Mary, en redevenant fidèle à Hellen, se souvient et pense peut-êre à l'aspect sexuel de sa femme.


Araignée

Après la visite d'Adam chez sa mère, on voit une gigantesque araignée dans la ville de Toronto. La mère disait de ne plus penser à cet acteur de troisième zone: «Toi qui a une respectable position qu'est le professeur de faculté.» Ce qui veut dire avant la tournure dans son délire, «Renonce à suivre ton activité d'acteur minable et cherche une position stable et respectueuse.» Ces conseils presque impératifs constituent une forte contrainte pour Anthony, et symbolisé par la gigantesque araignée, araignée étant le symbole de la mère. Si on ne juxtapose pas simplement les deux aspect de femme et les contrapose, le côté maternel étant la négation de l'autre côté et cet aspect maternel devient le sentiment de culpabilité. Donc l'araignée symbolise la culpabilité. La grande araignée dans la ville et les caténaires de tramway qui se ressemblent à une toile d'araignée représentent la pression pour Anthony. D'ailleurs, au début du film, dans un certain club secrète, le haut talon d'une fille nue allait écraser (ou pas) une araignée tarentule. C'est le conflit entre les deux aspects de femme. Et peut-être ça représente le désir d'Anthony de nier le côté maternel ou culpabilité. Mais au matin de la fin du film, après la nuit de réconciliation avec sa femme, on ne voit plus la grande araignée dans le paysage de la ville de Totonto. Il pense son conflit intérieur réglé.


L'histoire se répète: Tragédie ou farce

Le matin il s'habille. La veille il a demandé pardon à sa femme, il a réconcilié, et pense avoir fini sa vie de débauche, il a effacé son sosie Adam, il a vérifié la rupture avec Mary, il se croit redevenu fidèle à son épouse. Mais diable! Il trouve l'enveloppe contenant la nouvelle clé du sex-club secrète. Il annonce à Helen: «Je vais sortir ce soir.» Si c'était Adam déguisé à Anthony, il pourrait vaguement savoir de quoi il s'agit cette clé (par la conversation faite avec le concierge dans l'ascenseur), mais il ne saurait même pas où se trouve ce club. Il ne pourrait pas y aller. Donc il est Anthony. Au début du film, quand Anthony visite le club secrète, il marche le couloir suivi du concierge de son appartement, et c'est Anthony qui ouvre la porte avec sa clé. On a l'impression que le concierge n'a pas de clé. Parce que ce concierge disait dans l'ascenseur qu'il n'avait pas reçu la nouvelle clé, cette scène du début peut voir comme le soir du lendemain de la réconciliation. Ou bien cela constitue une boucle. Et peut-être c'est une boucle infinie et il ne pourra jamais régler son conflit intérieur. Déclarant à sortir le soir (qui veut dire aller assister à un certain sex-show), il trouve Hellen métamorphosée à une grande araignée, symbole de son culpabilité. Le dernier plan du film montre le visage d'Anthony, qui exprime son effort échoué.


PS: Ce film, c'était pour moi le troisième film de Denis Villeneuve. J'ai bien aimé le «Maelström», j'ai trouvé intéressant «Incendies», je n'ai pas encore vu «Prisoners»,  mais ici, bien que la narration soit excitante (qui nous donne envie de déchiffrer, comme elle m'a fait en faire une analyse ci-dessus), le côté drame n'a pas grand chose. Etant trop banal. Je trouve cela un peu décevant.


Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.


(écrit par racquo)