2013/04/16

『愛、アムール』の予告編を見ながら

L'AMOUR = 愛の感覚の相違


飽きもせず毎日桜坂劇場通いをしていると、当然のことながら同じ映画の予告編を何度も見ることになる。その中に昨年(つまり現時点で最新)のカンヌ映画祭パルム・ドール受賞作品、ミヒャエル・ハネケの『愛、アムール』の予告編がある。桜坂劇場での公開は今月20日(今週土曜)からで、自分もまだ本編は見ていない。


この予告編、パジャマ姿のジャン=ルイ・トランティニャンが彼独特のあの声で「Il y a quelqu'un?」(誰かいるのか?)と言うところで始まり、やがてタルコフスキーの『惑星ソラリス』で有名なバッハのコラール前奏曲がピアノ版で静かに流れ始める。なんと素敵な導入部だろう!。不在らしき家に警察がドアを壊して入ってくるという不穏当な場面に続き、イザベル・ユペールが無人の家にゆっくりとした足取りで入ってくる。そして椅子に座った彼女が昔の幸せを語る。このユペールが実に良いのだが、そのセリフには次のような字幕がついていた。


 子供の頃を思い出したの
 二人の愛し合う声を盗み聞きしてた
 両親の愛の絆を確認できるから


昔は画面右横に縦書きで出た日本語字幕、今は画面下の横書きが主流だ。なので現在の詳しい規格はわからないが、縦書き字幕の場合、35mmフィルム1フィート(16コマ)に日本語3文字。つまり2秒(48コマ)あたり9文字とい制約がある。なのでこの字幕も上手く訳してあるがどうしてもやや言葉足らず。


Tout à l'heure quand je suis entrée, je me suis rappelé comment je vous écoutais toujours faire l'amour quand j'étais petite. Ça me donnait le sentiment que vous vous aimiez et on resterait toujours ensemble.

上手い翻訳ではないかも知れないが、ざっと以下のようなものになる。

さっき入ってきたとき、思い出したの。私がまだ小さかった頃、いつもお父さんとお母さんが愛し合う声を、私がどんな気持ちで聞いてたかを。お父さんとお母さんは愛し合っているんだと感じて、みんないつまでもずっと一緒なんだと思った。


上に「お父さんとお母さん」と訳した原文は vous(あなたたち)で、映画をまだ見ていないのでわからないが、五十歳の娘(ユペール)が八十歳の父(トランティニャン)に35年ぐらい前を述懐して話しているらしい。親に向かって「あなたたち」は日本語では不自然なので「お父さんとお母さん」とした。「いつもお父さんとお母さんが愛し合う声」の愛し合う(faire l'amour)というのは「抱き合っている」、もっと露骨に言えば「セックスしている」という意味であり、字幕はその辺を「盗み聞き」と巧みに意訳している。


この(当時はまだ小さかった)娘の感覚。そして五十歳になってそれをこうして父親に話している(らしい)図。日本では違和感があるだろうし、日本映画でこうしたシーン(セリフ)が描かれているのを見た記憶がない。この映画はオーストリア人が撮ったフランス映画と言ってよいのだろうが、フランス映画ではこうした例が他にもある。例えば『妻への恋文』。夫婦関係があまり上手くいってないのではなかとちょっと気がかりな娘、たぶん六~七歳の娘。久しぶりに家に泊まった父。いつも母と寝室を別にしているから朝その娘は気軽に母親の部屋のドアを開ける。すると両親が裸で一つベッドで眠っていた。少女は「あ、ごめんなさい。」と言って立ち去ると、走って兄のところに行って「ママとパパが一つベッドで寝ていた!。」と嬉しそうに報告する。両親が肉体的セックスをする姿を両親が愛し合っているという証しと受け取り、喜ぶべきものだと感じる感覚。どちらが良いとか言うのではなく、ここに日本人とフランス人の愛に関する文化の絶対的差異がある。日本映画では若い結婚前のカップルや、中年でも不倫カップルのベッドシーンはたくさん見られるけれど、既婚夫婦の日常のセックスが描かれることはほとんどない。


以上何度も何度もこの予告編を見て、その都度感じていることを書いてみた。ちなみにこの予告編、最後に「人生はかくも長く、素晴らしい。」というコピーが出るが、これは予告編ではやってはならないことだ。観る前から観客に映画の解釈を既定するような行為ははなはだ迷惑だ。



2013.04.16   
ラッコのチャーリー


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