Il y a une brève critique en français sous le texte en japonais.
原題 Titre original : Irma Vep
Écrit et réalisé par Olivier Assayas
Prise de vue : Eric Gautier
Avec:Maggie Cheung, Jean-Pierre Léaud, Nathalie Richard, Bulle Ogier
1996 France / color 97min (ratio 1,66)
脚本・監督:オリヴィエ・アサヤス
撮影:エリック・ゴーティエ
出演:マギー・チャン、ジェン=ピエール・レオ、ナタリー・リシャール、ビュル・オジエ
2014.09.08 VHS
ちょっとチョンボをして映画の内容の紹介はVHSソフトの裏ジャケから引用させてもらうことにする。
" パリのある映画製作オフィス。サイレント映画の古典「吸血ギャング団」のリメイク「イルマ・ヴェップ」に出演するため、香港の人気女優マギー・チャンがやってくる。少々落ちぶれ気味の映画監督ルネが、スレンダーな彼女を、ゴムのボンテージ衣装に身を包む女泥棒役に指名したのだ。しかしマギーはフランス語がよくわからず、スタッフは衝突を繰返し、監督は情緒不安定。マギーに親身になってくれるのはレズの衣装係ゾエだけ。おまけにラッシュ試写の出来に落ち込んだルネは雲隠れをする始末。ついに監督の交代が決まった日、いきなりルネはスタッフを召集。秘かに再編集していたマギー版「イルマ・ヴェップ」の試写を開くというのだ。とこらがそこで映し出された映像は・・・。"
ところで所有しながらまだ観ていなかったこのVHSテープ、調べたら2012年12月にアマゾンのマーケットプレイスで ¥780 で買っておいたもの。この作品はDVD化されておらず、今このVHSの中古を買おうとすると同じアマゾンのマーケットプレイスで ¥12,742 が最安値(ヤフー・オークションではもう少し低価格)。買うべきものはある有るときに買っておくべきだという教訓。まあこの作品はフランス語作品だから自分は輸入盤でもかまわないのだけれど、アマゾン・UKで英語字幕入りのリージョン2・PAL仕様の中古のDVDが £1.73 +(送料)£3.58 = £5.31 だから約 ¥960 で入手できる(アマゾン・フランスは送料が高いのでUKを例にした)。日本では未DVD化。この作品はフランス映画なのだからフランスでは今でもDVDが買える、つまり存在しているのは当たり前かも知れないけれど(でも米国でも既に二度はDVD化されている)、この作品(あるいはその監督)が日本で人気のない点が日本とフランスあるいは欧米の映画ファンの性格の差を物語っている気がしてならない。
Louis Feuillade : Les vampires (1915)
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ではその差とは何か?、その説明は容易ではない。でも簡単に言ってしまえば、映画が物語が物語られるものとしてストーリーを追い、それにせいぜいが映像が奇麗だとかオシャレだとか、あるいは役者が魅力的だとか演技が良いとか、そういうことを重点として観る見方が日本の映画ファンの主流。まあそれが(世界中でどこでも)本来の映画の観方なのかもしれないけれど、「映画」を「映画」として評価するという観客が少ない気がする。つまり「映画」を「物語」としてだけではなく「映画」として観る楽しみだ。観客レビューのようなものを読んでいてもストーリーに関するコメントがほとんど。一方フランスの映画サイトALLOCINEなどの観客レビューには映画の作りに関するコメントが少なくない。
たとえば一度も観たことのないある映画があったとする。テレビででもなんででも、たまたま120分の映画の中の5分ぐらいの1シーンを観たとする。それが素晴らしいものであれば、前後の115分は見なくとも、それはそれで楽しめるものである。これは一つの映画の観方であり、ストーリーを追うのとは違う。その素晴らしさが映画的なものであれ、演技的なものであれ、映像的なものであれ何でも、「映画」というものを堪能できるわけだ。そういう意味で同じような傾向として日本では短編映画の存在場所があまりない。短くても物語的な起承転結を有した短編作品もあるけれど(これは超短い長編映画ということもできる)、そうではなく断章的な、スケッチ風の、とりたててストーリーのない短編映画を観る機会は、劇場や上映会でもDVDなどでも少ない。
今とりあげているオリヴィエ・アサヤス監督のこの映画、映画の中で映画の制作を描いた映画。有名なものとしてはトリュフォーの『アメリカの夜』があり、もっと大衆的な作品ではメリル・ストリープ主演の『フランス軍中尉の女』など、このタイプの映画は少ないわけではない。そうそうこの手の映画として諏訪敦彦の『H story』をあげておこう。これはなかなかの名作だと思う。(しかし日本映画であるにもかかわらずDVDは既に廃盤で、中古は ¥8,000 から、レンタル落ちでも ¥2,800。この作品、フランスの映画誌『カイエ・デュ・シネマ』などベタ褒めにしている。)このタイプと言ったもののその作りは色々ある。ここではサイレントの古典『吸血ギャング団(レ・ヴァンピール)』のリメイク作品の制作過程が撮られているわけだけれど、ジャン=ピエール・レオ演じる映画監督ルネ・ヴィダルが『吸血ギャング団』のリメイクを作る物語をただ外から描いているわけではもちろんない。ルネ・ヴィダルがマギー・チャンを撮ることは、オリヴィエ・アサヤスがマギー・チャンを撮ることとオーバーラップする。ルネ・ヴィダルはオリヴィエ・アサヤスであり、またそうではない。この重なる部分と重ならない部分という重層性から「映画」について語られ、結果として完成するのがオリヴィエ・アサヤスの『イルマ・ヴェップ』だ。
Louis Feuillade : Les vampires (1915)
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作中でリメイクを依頼された映画監督ルネ・ヴィダルを演じるのはジャン=ピエール・レオ。良くも悪くもこの人が出てくれば、その容姿は既にかつてのアントワーヌ・ドワネルではないけれど、それはフランス・ヌーヴェルヴァーグの象徴。作中のルネはルイ・フイヤードの『吸血ギャング団』のリメイクが不毛であることを知っている。なのでルネはカンフー映画で見て惚れ込んでいるマギー・チャンを主演とすることをリメイク受諾の条件とした。カンフー映画好きはオリヴィエ・アサヤス。この映画の後でアサヤスはチャンと結婚するけれど(後に離婚)、その交際が映画制作以前からか、制作中からか、制作後からなのかは知らないが、チャンを撮りたかったアサヤスはルネの姿だ。そしてこのルネの選択はたぶん正しかった。
しかし実際にリメイクを撮り始めて、そのラッシュを見て、ルネは失望する。それは「形」の再現でしかなかったからだ。元作のミュジドラと同じようにボンテージの姿をさせ、元作の映像の再現を撮影した。しかしそれは既にある映像の再現、あるいは模倣であって、生きた映像ではない。だからルネの降板により監督を引き継いだ凡庸な映画監督のジョゼ・ミュラノは「なぜミュジドラの役を中国人がやらなければならないんだ?。これはパリの物語であって、フー・マンチューじゃないんだ!。」とマギー・チャンを解雇するけれど、ミュラノ監督がしようとするのはまさしくこの血の通っていない映像の再現・模倣であり、仮に完成してもつまらないものであることは予想される。フイヤード作品のリメイクという不毛な企ての中で唯一「生きた」要素であった監督の女優への愛、それを無くしてしまえば何の創造的なものも残らない。
Louis Feuillade : Les vampires (1915)
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停滞するリメイク作品の制作、映画の中のマギー・チャンはある夜ボンテージの衣装を着てホテルの自室を出ると、『吸血ギャング団』のイルマ・ヴェップさながらにホテルの廊下を忍び歩き、ちょうどルームサービスが来てドアが開いた隙に女性独り客の部屋に忍び入る。部屋の女は裸で愛人らしきと電話中。マギーは傍らに置かれた真珠の首飾りを手に取ると気づかれないように部屋から出る。見つからないように逃げて屋上に出たマギー(イルマ?)は首飾りを投げ捨てる。翌朝ホテルに彼女を迎えにきたゾエが部屋に電話をしてもマギーが出ないので、緊急事態としてホテル従業員にマスターキーでドアを開けてもらうと、マギーはボンテージに身を包んだまま熟睡していた。彼女は睡眠薬を飲んでいたので寝坊したと言う。なので昨夜の出来事(犯罪的行為)が夢なのか現実なのかはわからないという枠は付されているけれど、こんな考察自体実は意味がない。なぜならすべて映画の中のことなのだから。前夜のこの美しいシーンがこの作品のいちばんの魅力的なシーンであり、この映画の要と言ってもよいだろう。演じたのはアサヤスのこの映画の中で自分役を演じるマギー・チャンであり、監督したのはオリヴィエ・アサヤスで、ルネ・ヴィダルではない。ルネではなくアサヤスが『吸血ギャング団』のリメイクをここで撮ったわけだ。マギー・チャンは監督(ルネ)の要求に答えようとイルマ・ヴェップをより自分自身として感じるためイルマ・ヴェップを生で演じてみた。しかしこの構造は我々観客が映画を観るときの姿の象徴でもある。映画をみる観客は、主人公に自己を同一化して、主人公の一喜一憂をわが物として感じようとするからだ。マギーは宝石を捨ててしまうが、重要なのは物ではなく行為そのものだ。つまりここで映画の中のマギーはフイヤードのイルマ・ヴェップに自己同一化をし、観客である我々は映画のマギーに自己同一化をするという二重の同一化が生じる。映画的表現の誕生を描いているとも言えるわけだ。
この映画のもうひとつの魅力は衣装係ゾエの存在だ。難航するリメイクの制作。神経衰弱で逃避してしまう監督。ストレスから互いに罵り合い、建設的でないスタッフたち。そんな停滞の中で一人生命力を持って真摯に生きているのがゾエだ。前向きに生きるその姿は感動的であり、周囲の他のすべてと対比を成している。ナタリー・リシャールはそんな彼女を魅力的に好演している。そういえば一人ラボに取り残されてしまったマギーをゾエはバイクに乗せて友人宅の親しい集まりに連れていく。その家の女主人ミレイユとのキッチンでのやりとりが素晴らしい。ミレイユを演じたのはビュル・オジエ。舞台でもテレビでも活躍するこの女優さんは、映画として言えば90本ほどの作品に出演しており、ジャン・ドゥーシェ、ジャック・リヴェット、アンドレ・テシネ、アラン・タネール、バルベ・シュローデル、ルイス・ブニュエル、エドゥアール・モリナロ、ダニエル・シュミット、クロード・ルルーシュ、フィリップ・ガレル、マルグリット・デュラス、ライナー・ヴェルナー・ファスビンダー、マノエル・ド・オリヴェイラ、クロード・シャブロルなどフランスを中心とした名監督たちと仕事をしている(各一回とかではなくいわばミューズのような形でも)。変な言い方をさせていただくなら彼女はフランス映画界の重鎮のような存在感をもった女優さんだ。レジオンドヌール勲章オフィシエも叙勲されている。しかしウィキペディアの日本語版にこの女優さんのページはない。上に挙げた十数名の監督の名前を見て感じるのは、この人たちがみなあまり日本では大衆的な人気はないことだ。最初の方に書いた欧米の映画ファンと日本のそれとの差のようなものがここでも確認されると言えるのかも知れない。
映画度:★★★★★/5*
*註:★5個を満点とした映画度の評価に関しては後日説明の記事をアップする予定(既に一部アップ済み)。簡単に言えばどれだけ映画的な映画であるかということで、作品の良し悪し・好き嫌いとは無関係。
2014.09.11
ラッコのチャーリー
C'est un film dans lequel on tourne un film. C'est comme « La nuit américaine » de François Truffaut ou plus populaire « La maîtresse du lieutenant français » avec Meryl Streep. Mais à cette occasion j'aimerais bien vous recommander « H story », une sorte de remake du film d'Alain Resnais « Hiroshima mon amour », réalisé par Nobuhiro Suwa; c'est un beau film à la fois intellectuel et poétique. Ici il s'agit de tourner un remake de « Les vampires », film muet de Louis Feuillade. Jean-Pierre Léaud, Monsieur la Nouvelle Vague, incarne le réalisateur un peu en déclin René Vidal. Il sait que faire un remake de Feuillade est vain. Alors il choisit une actrice chinoise qu'est Maggie Cheung pour le rôle principale d'Irma Vep, jadis jouée par légendaire Musidora. Parce qu'il aime les films kung fu hongkongais et Maggie Cheung est une vedette pour René (et c'est aussi pour Olivier Assayas). Le tournage commence mais en en voyant les rushes, les scènes reproduites ne sont que de simples imitations ou copies et n'ont pas de force cinématographique. René impose à Maggie de sentir plus intimement, de plus près, le rôle d'Irma pour mieux l'incarner. Une nuit dans sa chambre d'hôtel elle fait réflexion sur ce que lui a dit René mais n'arrive pas à en obtenir la solution. Alors elle sort discrètement de sa chambre avec son costume d'Irma Vep noir collant type bondage du film, rôde dans les couloirs de l'hôtel tout comme une vraie voleuse, furtivement entre dans une chambre d'une inconnue par la porte laissée ouverte par la femme de chambre qui lui sert un room-service, observe secrètement l'inconnue nue qui est en train de parler avec son amant au téléphone, trouve un collier de perle, le vole, sort de la chambre sans être aperçue, fuit les couloirs et escaliers, à peine sans être surprise, et enfin gagne la toiture. Cette scène constitue un remake fait par Olivier Assayas et non par René Vidal. Ici il y a un autre aspect. Maggie a fait tout cela sans doute pour mieux sentir Irma Vep pour répondre à la demande de René. Mais sentir un personnage du film en s'y identifiant, pour Maggie ici c'est de s'identifier à Irma Vep de Feuillade, c'est ce qu'on fait un spectateur de cinéma. Et pour nous c'est de nous identifier à ce personnage qu'est Maggie. Donc il y a ici une double identification (Maggie/Irma et nous les spectateurs/Maggie). On peut dire en quelque sorte que cette scène décrit la naissance d'un œuvre cinématographique. A part cette très belle scène, le personnage de la costumière Zoé incarnée par Nathalie Richard était bien attirant, avec la force et l'aspiration de vivre sincèrement, faisant contraste aux personnels du tournage qui ne font que de se disputer et négliger leur vie. Et aussi l'apparition de Bulle Ogier était un plaisir, avec une scène de conversation avec cette Nathalie Richard.
Les étoiles indiquées en haut ne signifient pas mon appréciation du film, mais à quel point, à quel degré le film a le caractère ou attrait cinématographique et non télévisuel.
(écrit par racquo)
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